賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

シルクロード横断:第11回 嘉峪関→敦煌

 2006年9月2日、8時30分、嘉峪関のホテル「青年賓館」を出発。現代版のシルクロード、国道312号を西へ、西へと走る。道は快適な2車線の舗装路。ところが工事中の区間になると、延々と砂漠の中に迂回路がつづく。もうもうと砂煙を巻き上げてトラックやバス、乗用車が走る。それらの車をかきわけるようにして我々はバイクを走らせた。

 日本だと工事区間といえば何10メ-トルとか何百メートル、長くても1キロ前後だが、中国の工事区間というのは桁が違う。何キロとか何10キロ単位、長いところでは100キロ単位でつづく。国の大きさの違いを見せつけられた。

 西域への玄関口、玉門関で知られる玉門近くの、そんな迂回路のダートを走っているときのことだった。ほとんど前方も見えないような土煙に巻かれながら、トラックやバスを追い抜きながら走った。そこで事故、発生。TW225に乗る上沼さんが吹っ飛び、そのまま地面にたたきつけられ、まったく動かない状態だった。

 その事故現場を見たときは、一瞬、「上沼さんが死んでしまった…」と思ったほどだ。顔面、血まみれになっていた。 中国人スタッフがすぐさま携帯電話で救急車を呼んでくれた。驚いたことに電話してから15分後には玉門の町から救急車がやってきて、上沼さんを収容すると、玉門の町の病院へと向かっていった。

 我々は玉門の町に着くと、食堂で昼食にしたが、その最中に玉門の病院から連絡があった。上沼さんの状態だが、鎖骨、足首の骨、顔骨を折っているが命には別条はないという。だが、頭を強打しているので予断を許さない状態だ。はからずも中国の救急医療の現場を見たが、我々の予想をはるかに超えて進んでいた。上沼さんは病院に収容されると瞬時に、全身を写すCTスキャンで診断が下されたという。とにもかくにも上沼さんの命に別条がないと聞いて心底、ほっとするのだった。

 玉門から安西へ。そこでいったん国道312号を離れ敦煌に向かう。砂漠の中に一本道がつづく。

 今から20年近くも前のことになるが、茨城県で高校の先生をしていた萩野谷芳一さんを隊長とするバイクでの「シルクロード横断」の一行が、やはりこのルートを走った。まさに日本人ライダーの「シルクロード横断」のパイオニアだ。ところが隊長の萩野谷芳一さんは、トラックと正面衝突し、亡くなった。1988年8月2日のことだった。今ではすっかり新しいハイウエイになっているが、その事故現場がここ、安西近郊の敦煌への道だったという。

 17時、嘉峪関から389キロ走って敦煌に到着した。町の中心にあるホテル「敦煌大酒店」に泊まる。

 玉門で事故を起こした上沼さんはよりよい設備の病院ということで、敦煌の総合病院に移送されていた。夕食後、さっそく上沼さんを見舞った。病院では最高の特別室に収容され、日本語を話す通訳がついていた。

 これらはすべて「道祖神」の菊地さんが手配したこと。このような大変な状況の中での、菊地さんのじつにすばやい対応ぶりには驚かされてしまう。さらに菊地さんは「上沼さんはすぐさま日本に送り返したほうがいい」と即座に、その場で判断を下した。北京から医師と看護師が同乗する救急用のジェット機を呼び寄せ、そのジェット機が羽田空港に着陸できるよう日本の国土交通省と携帯で交渉した。

 その結果、上沼さんは翌日にはジェット機で羽田空港に送られ、飛行機に横付けされた救急車で東京の聖路加病院に収容された(これは後日談になるが、11月25日に「シルクロード横断」を走ったメンバーが東京に集合。そのとき上沼さんも来てくれた。元気そうな顔で、松葉杖も使わず、自分の足で歩いていた。そんな上沼さんの姿を見たとき、ぼくは事故直後の、このじつにすばやい対応のおかげだと思った)。

20両編成の列車が平原を行く
20両編成の列車が平原を行く

安西から敦煌への道。ひと筋の舗装路が砂漠を貫く
安西から敦煌への道。ひと筋の舗装路が砂漠を貫く

あと、もうひと息で敦煌。風が強い
あと、もうひと息で敦煌。風が強い

敦煌の町の目抜き通り
敦煌の町の目抜き通り