賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

シルクロード横断:第9回 武威→張掖

 2006年8月31日、いつものように朝起きると、目覚めたばかりの早朝の町を歩く。ホテルに戻ると朝食。そのころから雨が降ってきた。西安を出てからというもの天気の悪い日がつづいているが、武威でも雨具を着ての出発となった。武威を出ると、広大な草原地帯を見る。そこではヒツジが群れていた。農耕の世界から牧畜の世界に入ったことを実感させる風景だ。

 ゆるやかな峠を越える。といっても峠で高度計を見ると2500メートルを超えている。日本の自動車道の中では最高所の峠、山梨・長野県境の大弛峠が標高2360メートル。それよりもさらに高い峠なのだが、高さはあまり感じないのだ。登り下りもスズキDR-Z400Sにとってはものたりないくらいのゆるかさだった。

「河西回廊」を行く。甘肅省の地図を見てもわかるように、この間、甘肅省の形はまさに回廊で細長い形をしている。「河西回廊」は黄河の西に位置しているので「河西」になるのだが、その南に連なる邦連山脈は3000メートルから5000メートルの高度がある。主峰の邦連山は標高5547メートル。その山麓は山々からの融雪で水が豊かななのでいくつものオアシスができている。シルクロードはそのような河西回廊のオアシス群をつないで延びている。

 このあたりはかつては牧畜民、匈奴の土地。「邦連」は匈奴語で「天」を意味するという。我々がこれから見るようになる「天山山脈」の「天山」と同じような意味。だが、降りしきる雨のせいで、「天山」の邦連山脈はまったく見えなかった。

 その日の宿泊地、張掖に向かっていく途中の山丹で昼食。山丹といえば、名馬の「山丹馬」で知られている。この町の食堂で食べた炒飯はうまかった。それには卵とトマトの炒めものがついていた。砂漠にどんどんと近づいているので、塩味がそれにともなって濃くなっているのがよくわかる。砂漠の民には塩分が必要なのだ。

 山丹を過ぎると、国道312号のすぐわきに残る漢代の崩れかかった「万里の長城」を見た。

 16時、武威から261キロの張掖に到着。町の中心にあるホテル「張掖賓館」に泊まる。我々の泊まったホテルのすぐ隣が、巨大な仏陀の涅槃像をまつる宏仁寺。通称大仏寺をさっそく見てまわった。

 大仏殿には中国最大の涅槃仏がまつられているが、その身長は34・5メートル、肩幅は7・5メートルもある。柔和な顔をした豊満な仏像だ。大仏寺の創建は1095年。当初は信心深い西夏の太后がよくここに宿泊した。元の開祖フビライの母、ベーチ太后もこの地に住み、この地でフビライを生んだという。張掖はそのような歴史がある。

 張掖の古名は「甘州」。中世の大旅行家マルコポーロは、この町に1年間、滞在した。「東方見聞録」の中でマルコポーロは次のように甘州のことを書いている。

「カンプチュー(甘州)はタングート大州内の都市であるが、大州の首府であり統治の中心であるだけに、規模も大きく非常に立派な町である。住民は偶像教徒のほかに若干のイスラム教徒、キリスト教徒を含んでおり、キリスト教徒は城内に立派な教会堂三所を持っている」

 偶像教徒というのは仏教徒のこと。当時は張掖の住民の大半は仏教徒だったことがこの一文からもよくわかる。と同時に、この町で仏教徒はイスラム教徒、キリスト教徒と共存していたことも読み取れるのだ。

国道沿いに残る漢代の「万里の長城」
国道沿いに残る漢代の「万里の長城」

張掖の宏仁寺(大仏寺)
張掖の宏仁寺(大仏寺)

宏仁寺内で
宏仁寺内で

中国製ワインを飲みながらの夕食
中国製ワインを飲みながらの夕食