賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

甲武国境の山村・西原に「食」を訪ねて(その3)

 (日本観光文化研究所「あるくみるきく」1986年10月号より)

西原に入る

 上野原駅前を出発して50分、峡谷を抜け出て、バスは初戸(はど)という停留所で止った。わずかに開けた小空間に20戸ほどの家々が寄り添っている。ここからが旧西原村。初戸とはいかにも村の入口らしい地名ではないか。

 初戸の立っているのも容易ではない急傾斜の畑では、コムギが勢いよく穂を伸ばしている。オオムギの穂も見える。麦類とまるでセットにでもなっているかのようにエンドウマメが赤紫や白い花をつけている。

 初戸では元気な声を張りあげて、保育園児が5人、おばあさんや母親の見送りを受けてバスに乗り込んできた。車内は急ににぎやかになる。

 初戸を過ぎると、バスは鶴川の本流を離れる。六藤(むそうじ)、上平(わったいら)、佐群(さむれ)入口という停留所に止まるたびに、保育園児が一人ずつ乗ってきた。

 車窓から眺める西原の山々は、大部分が植林されたスギやヒノキで覆われている。西原の全面積は3671ヘクタールになるが、そのうち2953ヘクタールが山林で、すべて民有林。山林の面積は8割を超える。ただし民有林とはいっても、大半は大山林地主の持山。終戦後、山を持つ家が増えたが、それでも西原全戸の3分の1あるかどうかである。

 林業はたしかに西原を支える主要な産業なのだが、近年の木材価格の低迷や、木材需要の落ち込みによって現状は厳しい。それに追いうちをかけるかのように、今年(1986年)の春先の大雪で、樹齢2、30年のスギやヒノキが次々に折れた。車窓から見える植林の山のあちこちには、折れた先を白く見せたまま、まるで槍先を天に向けるかのようにして立つスギやヒノキ…。その光景はなんとも無残だった。

 ゆるやかな峠を越える。

 峠上の集落は田和(たわ)という。峠の語源にはいくつかの説があるが、「タワ説」もそのひとつ。西日本では峠のことを「タワ」とか「タオ」という。東日本にも大垂水(おおだるみ)峠とか大弛(おおだるみ)峠といった峠名がある。ともに山の鞍部をいいあらわす「たわみ」もしくは「たわむ」からきているのではないか。そのように考えると、西原の田和も峠をいいあらわす「タワ」からきている可能性もある。

 峠の田和で一人、峠を下った扁盃(へはい)でさらに3人の保育園児が乗り、バス道路が再び鶴川本流と出会う下城(しもじょう)で園児たちは降りた。そこに保育園があるのだ。

 下城には旧西原村時代、村役場があった。現在でも上野原町(※その当時は上野原町)役場の西原支所があり、警察の駐在所や農協の事務所、小学校、中学校、ガソリンスタンド、雑貨店、酒店、理髪店、食堂、旅館などがバス道沿いに建ち並び、西原で唯一の町といえるような集落になっている。

 下城で再び、ガラ~ンとした車内にとり残された。

 下城はごく小規模な盆地状の地形になっている。平地はほとんどない。道路沿いの家並みの背後はゆるく傾斜する畑。見上げると、かなり山の上まで家々が点在している。しかし鶴川の対岸には家は1軒もない。対岸は北向の斜面になり、山には一面、スギやヒノキが植林されている。

 バスは鶴川の河畔から山裾の台地上に登り、郷原、原の集落を通っていく。原を過ぎると再び鶴川沿いに走り、最奥の集落、飯尾が終点。道はその先、鶴峠を越えて小菅村へと通じている。