賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

シルクロード横断:第2回 神戸→天津

 2006年8月18日12時00分、我々「シルクロード横断」のメンバー、総勢18人を乗せた中国船「燕京号」は神戸港を出港。しばらくは甲板に立ち尽くし、中国製「燕京ビール」(200円)を飲みながら、離れゆく神戸の町並みを眺めた。

 そのあと船内のレストランで昼食(1000円)。肉料理&野菜料理にライス、スープ、饅頭がついている。食べ終わったところでまた甲板に上がり、流れゆく瀬戸内海の風景を眺めつづけた。

「燕京号」は明石海峡大橋の下をくぐり抜け、小豆島の南側を通っていく。四国側の五剣山や屋島、高松の町並みがよく見える。瀬戸大橋をくぐり抜け、塩飽諸島の島々を見る。たまらない眺めだ。2001年から2002年にかけて、1年がかりでまわった「島めぐり日本一周」のシーンが思わず蘇ってくるのだった。

「燕京号」は夕方、広島県の笠戸諸島の沖合いにさしかかったところで速度をガクンと落とし、やがて停船した。ガラガラガラッと大きな音をたてて碇を下ろす。本土上陸の台風10号が接近しているので、ここで24時間停船し、台風をやりすごすという。だが、瀬戸内海はいつものように波静か。レストランで夕食を食べたあとは船室で「シルクロード横断」のメンバーと飲み会だ。中央アジアの地図を広げると、夢は中央アジアへと飛び、際限なくふくらんでいく。

 8月19日8時00分、レストランでの朝食。1皿目は無料。朝粥だ。饅頭もついている。2皿目以降は200円。船内では日本円が通用する。停船して碇をおろしているのだから当然のことだが、「燕京号」はまったく動かない。さすが瀬戸内海、台風が接近しても海は穏やかで荒れることはなかった。

 午前中は別の船室にいる趙文利さんの話を聞いた。中国籍の趙さんは今は大連に住んでいるが、純粋の日本人。なんとも数奇な人生を送っている。兵庫県出身のおじいさんの代に旧満州(中国東北部)のジャムスに開拓農民として渡った。終戦の混乱時におじいさんは亡くなり、お父さんは新京(長春)で孤児になった。その後、はるか遠くの新疆ウイグル自治区に移り住む。お父さんは新疆ウイグル自治区の中心、ウルムチで結婚。相手の女性は日本人でやはり戦争孤児だった。

 趙さんは新疆ウイグル自治区で生まれ育ち、ハミの大学に行った。お父さん、お母さんは1976年に日本に帰国したとのことだが、趙さんはそのまま中国に残り、今では大連を拠点にして日中間のビジネスをしている。これはずっと先のことになるが、我々がハミに行ったとき、ちょうど趙さんもハミの大学の同窓会で同じホテルに泊まった。そのときは抱き合うようにして再会を喜びあったが、これも縁。旅して何がおもしろいかというと、こうして旅先で出会う人たちとの縁だとぼくは思っている。そんな趙さんとレストランで一緒に昼食を食べた。

 夕方になって「燕京号」はやっと碇を揚げ、動き出す。今治の沖合いを通り、しまなみ海道の来島海峡大橋の下をくぐり抜け、島だらけといった様相の芸予諸島の島々を縫い、夜中に関門海峡を抜けた。そのとたんに台風の余波で船は大きく揺れた。

 8月20日、目を覚ますとすぐに甲板に上がったが、目の前には朝鮮半島西岸の島々が見えていた。その日は朝鮮半島の西岸を北上。夜は「シルクロード横断」のメンバーでワインパーティー。もうメンバー全員が昔からの知り合いであるかのような和やかさ。これが船旅のよさというものだ。

 8月21日16時、「燕京号」は天津港に到着。爆発的な経済成長をつづける今の中国を象徴するかのように、天津港の港外には大小無数の船が入港の順番を待っている。「燕京号」はコンテナ埠頭の前を進み、やがて客船用の埠頭に接岸。我々は船を降り、入国手続きを終え、中国の大地を踏みしめた。いよいよ「シルクロード横断・中国編」の旅がはじまるのだ。

神戸港を出港。遠ざかっていく神戸の町並み
神戸港を出港。遠ざかっていく神戸の町並み

「燕京号」のレストランでの食事風景
「燕京号」のレストランでの食事風景

天津港のコンテナ埠頭
天津港のコンテナ埠頭

天津港に接岸
天津港に接岸