賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

カソリの新・峠越え:神奈川(12)尺里峠(ひさりとうげ)

 中山峠(神奈川-11参照)を越えた翌日の6月16日、今度は尺里峠を越えようと、ふたたび寄(やどりぎ)に向かった。前日と同じように午前10時、神奈川県伊勢原市の自宅を出発。

 スズキDR-Z400Sを走らせ、国道246号を西へ。秦野市と松田町境の寄入口の信号を右折し、県道710号に入っていく。この道が寄に通じている。巨大な採石場跡を右に見、深い渓谷を左に見ながら走る。この谷の奥に集落があるとは思えないほど山深い風景だ。やがて中津川沿いの開けた風景に変わる。劇的な風景の変わり方。そこが寄だ。ほかの世界とは隔絶されたような小世界。中津川沿いには点々と集落がつづく。

 寄の田代で県道を左折し、中津川にかかる田代橋を渡ってすぐに左折し尺里峠へ。県道との分岐点には「田代向」のバス停がある。それがいい目印になっている。つづいて虫沢川にかかる谷戸橋の手前を右へ。虫沢川に沿って登り、虫沢の集落へ。

 尺里峠は峠を越えると山北町の尺里に下っていくが、寄側からいえば尺里に通じているので尺里峠の名前がある。この尺里峠の別名は虫沢峠。山北側からいえば寄の虫沢に通じる峠なので、虫沢峠になる。尺里峠、虫沢峠の2つの峠名のうち、尺里峠がより一般的になっているので、いまでは尺里峠といわれている。

 このような例は日本の各地で見られる。よく知られているところだと、伊豆半島の国道136号の中伊豆から西伊豆へと越えていく土肥峠だ。伊豆国の中心の三島や中伊豆の人たちにとっては西伊豆の土肥に通じる峠なので土肥峠だが、土肥や西伊豆の人たちは同じ峠を船原峠を呼んでいる。西伊豆側から峠を越え、下ったところが船原だからだ。そこには船原温泉がある。さらに船原からは狩野川沿いの町々を通り、三島へと通じている。船原峠は西伊豆から中伊豆、三島方面に通じる峠なのだ。

 東京・檜原村山梨県上野原市の間には東京都と山梨県の境となる山並みが連なっている。昔は武州甲州の境となるこの甲武国境の山並みを越える峠がいくつもあった。そのうちのひとつが西原(さいはら)峠だ。檜原村最奥の集落、数馬から越える甲武国境の峠で、峠を越えると旧西原村郷原の集落へと下っていく。反対に山梨県側の旧西原村の人たちはこの峠を数馬峠と呼んでいる。数馬に通じる峠だからだ。西原峠、数馬峠と2つの名前を持つこの峠も、現在では西原峠が一般的になっている。

 さて、虫沢の集落から登っていく尺里峠だが、登るにつれてきれいな茶畑の中を行く狭い道になる。「高松山」とか「高松方面」の表示が所々にある。やがて杉林の中に入っていく。峠道沿いの小さな畑はトタンと金網で囲われている。イノシシから畑をまもる「猪垣(ししがき)」だ。山地民と猪の壮絶な戦いの一端をこの猪垣にかいま見る。

 尺里峠に到達。峠は十字路になっている。右は高松山への道。そのまま峠道を下り、高松の集落に寄っていく。そこには山北町立・川村小学校の高松分校があった。神奈川県内では唯一の分校だ。かつては20名以上の生徒がいたということだが、現在ではわずか2名。小学校1年生から3年生までの間の分校で、今年は開校50年周年だという。日本中からあっというまに消えていった分校がこうしてしっかりと残っているということに思わず感動し、「50周年記念」に拍手を送りたい気持ちでいっぱいになった。地元のみなさん方や先生らにとってはさぞかしご苦労の多いことだろうが、このまま高松分校が残ってほしいと思うのだった。

 日本は山国だ。そんな山国・日本では山村がすっかり衰退している。山村の子供の数も急速に減っている。山村で出会うのは年寄りばかりというのが現状(もっとも今の日本では、それは何も山村に限らないが…)だ。日本人が山地で生活できなくなるというのは、山国・日本の崩壊ではないか…。そんなことを痛切に考えさせられた尺里峠の高松の集落であり、高松分校だった。

 高松からさらに下ったところが尺里。東名高速道の橋脚の下をくぐり、国道246号旧道の「高松山入口」のバス停に出た。そこから国道246号の旧道で山北の町並みを走り抜け、国道246号を横切り、洒水(しゃすい)の滝を見にいく。日本の滝100選にも選ばれている名瀑だ。その入口にある岩清水の名水を飲んだ。ひやっとした感触のうまい水だった。こうして洒水の滝を最後に伊勢原に戻ったが、全行程60キロの尺里峠越えだった。

イノシシから畑をまもる猪垣
イノシシから畑をまもる猪垣

尺里峠
尺里峠

高松分校
高松分校

洒水の滝
洒水の滝