賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(21)

■2013年3月15日(金)晴「大船渡→三沢」292キロ(その1)

 富山温泉「沢乃湯」の朝湯に入ってから出発。大船渡から県道9号で綾里へ。

 綾里漁港では漁民総出といった賑わいで収穫したワカメを岸壁に揚げていた。活気に満ちあふれた漁港の光景。水揚げされたワカメはすばやく大釜でゆでられる。

 三陸鉄道南リアス線綾里駅前には明治三陸津波と昭和三陸津波の被害状況が克明に記されている。それには「津波の恐ろしさを語り合い、高台に避難することを後世に伝えてください」と書かれている。

 綾里は今回の「平成三陸津波」でも40・1メートルの最大波高を記録したが、「津波教育」が徹底しているおかげで死者は30人ほどですんだ。ちなみに明治三陸津波(1896年6月15日)では、旧綾里村では1269人もの死者を出している。

 越喜来で国道45号に合流し、羅生峠を越え、吉浜湾の吉浜へ。ここまでが大船渡市になる。吉浜からは鍬台峠を越え、釜石市に入った。

 国道45号の峠はすべて長いトンネルで貫かれているが、峠を越えると海が変る。鍬台峠を越えると唐丹湾になるが、湾岸の小白浜は巨大防潮堤がなぎ倒された現場。破壊された巨大防潮堤はそのままの姿で残っていた。この小白浜の巨大防潮堤の半分は破壊されたが、もう半分は無傷で残っている。

 釜石市内に入る。震災2年後の釜石の目抜き通りは、ずいぶんときれいになっていた。釜石の中心街を走り抜け、釜石港へ。ここでは港の防潮堤を突き破って5000トン級の大型貨物船が乗り上げた。その船は日本最大級のクレーン船によって吊り上げられ、海に戻されたが、船が突き破ってできた防潮堤の破壊箇所はそのまま残っていた。

 釜石を出発。国道45号を行く。大槌の手前が鵜住居で、ここまでが釜石市になる。

 鵜住居釜石市最大の被災地。ここだけで1000人もの犠牲者が出た。悲劇だったのは津波避難訓練に使われていた鵜住居地区防災センターに避難した100人以上もの人たちが亡くなったことだ。その防災センターは廃墟と化した町並みの中にポツンと残っていた。

 釜石市から大槌町に入る。

 大槌町では、地震発生時、町役場前で防災会議を開いた当時の町長や町役場の職員40人が亡くなるなど1300人が犠牲になった。すさまじい数字だ。町役場はまだ残っているが、「平成三陸津波」のメモリアルとして残そうという意見と、「もう見るのもいやだ、すぐに撤去して欲しい」という意見に割れ、町を二分した。その結果、一部を残すことに決まった。町としては広島の「原爆ドーム」をイメージしているようだ。大槌の町中には1344人の犠牲者を悼む「慰霊1344広場」が開設されていた。その前で手を合わせた。

 大槌町から山田町に入る。

 山田も大津波に襲われて大きな被害を受け、700人以上もの犠牲者が出た。鵜住居、大槌、山田と、三陸海岸のこの狭いエリアだけで3000人以上もの多くの命が奪われた。鵜住居から山田までは20キロほど。ビッグボーイで走れば30分ほどの距離でしかない。

 壊滅的な被害を受けた山田だが、隣合った2つの町、大槌と山田には大きな違いがある。それは町役場だ。大槌の町役場は津波の直撃を受けて全壊。それに対して山田の高台にある町役場は残った。司令塔を失った大槌と、司令塔の残った山田、この隣合った2つの町は対照的だ。

 山田の町役場の隣には八幡宮があり、参道の入口には「津波記念碑」が建っている。それは1933年3月3日の昭和三陸津波の後に建てられたものだ。

 山田の「津波記念碑」には次のように書かれている。

  1、大地震のあとには津波が来る

  1、地震があったら高い所に集まれ

  1、津波に追われたら何所でも此所位高い所へ登れ

  1、遠くへ逃げては津波に追い付かれる。近くの高い所を用意して置け

  1、県指定の住宅適地より低い所へ家を建てるな

 山田の町役場は「津波記念碑」の教えを忠実に守り、それと同じ高さのところに建っているので無事だった。それに対して山田の町並みは「津波記念碑」の教えを無視し、それよりも下に町並みを再建したので、明治三陸津波、昭和三陸津波にひきつづいて今回の平成三陸津波でも、町が壊滅状態になってしまった。

 山田の町から船越半島に渡ったところには「カキ小屋」がオープンしていた。そこで「カキフライ定食」(900円)を食べた。うまい山田湾産のカキだった。

 山田湾の青い海には大分、養殖用の筏が見られるようになった。山田漁港に行くと、ずいぶんと活気が戻っていた。おびただしい数のカモメが、山田漁港に水揚げされる漁獲量の増えていることを証明しているかのようだった。

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(21)

■2013年3月14日(木)晴「宮戸島→大船渡」212キロ(その2)

 気仙沼を出発。ビッグボーイを走らせ、国道45号で岩手県に入る。最初の町が今回の「平成三陸津波」で一番大きな被害を出した陸前高田だ。かつての町並みは消えたままで、いまだに復興の芽すら見られないが、枯れた「奇跡の松」の復元工事はほぼ終ろうとしていた。「日本三大松原」に次ぐくらいの高田松原は全滅し、7万本以上もあった海岸の松はすべて流された。その中でかろうじて残ったのが「奇跡の松」だった。

 陸前高田の海岸は地形が変わり、高田松原海水浴場の長い砂浜は消えた。家族連れで賑わった夏の海水浴場のシーンが、しきりに目に浮かんでならなかった。

 国道沿いの高層ホテルは取り壊されたが、道の駅「高田松原」の建物は無惨な姿をさらして残っていた。その前には屋根つきの建物の中に、新しい慰霊碑が出来ていた。建物の壁には震災前の陸前高田駅前通りの写真が貼られてあったが、その1枚の写真に胸が熱くなり、ジーンとしてしまう。

 陸前高田から通岡峠を越えて大船渡市に入っていく。JR大船渡線の線路はJRバス専用の舗装路に変わり、赤いハイブリッドバスのBRTが走っている。活気を取り戻した大船渡漁港から、かつての大船渡の中心街へ。瓦礫は完全に取り除かれている。そして大船渡線の終点の盛駅に到着。盛駅の周辺は大津波の影響をほとんど受けていない。ここでもわずかな高さの違い、地形の違いによる大津波の被害の有無、被害の濃淡を見せつけられるのだった。

 大船渡郊外の富山温泉「沢乃湯」に泊まった。ここは宿泊可。それも1泊3000円という安さ。東北の太平洋岸にはほとんど温泉がないので、富山温泉は貴重な存在だ。湯から上がると夕食。部屋で国道45号沿いのローソンで買ったコンビニ弁当を食べた。「十和田バラ焼き弁当」と「納豆巻」だ。

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(19)

■2013年3月14日(木)晴「宮戸島→大船渡」212キロ(その1)

 宮戸島の民宿「桜荘」の朝食を食べ出発。もう一度、宮戸島をまわり、東松島市の中心、矢本へ。JR仙石線矢本駅前でビッグボーイを止めた。仙石線鳴瀬川を渡ったところにある陸前小野駅から石巻駅までは再開されている。

 陸前小野駅から松島に近い高城町駅の間は不通のままで、JRの代行バスが走っている。その不通区間野蒜駅東名駅がある。この2つの駅を内陸側に移し、新たに新野蒜駅と新東名駅をつくり、2015年には仙石線の全線を開通させるという。そのときは仙台から石巻まで、仙石線の全線に乗ってみたいものだ。頑張れJR、頑張れ東北!

 矢本からは国道45号→国道398号で石巻の町に入っていく。石巻でも石巻駅の駅前でビッグボーイを止めた。

 石巻駅を起点にして石巻をまわる。ゴーストタウン化した旧北上川の川沿いはそのままの風景だが、道をふさいでいた乗り上げ船は撤去されていた。川岸から日和山に登り、展望台から旧北上川の河口と石巻漁港を見下ろした。山裾と海の間は瓦礫が撤去され、更地になっている。

 日和山からの眺めを目に焼き付けたところで、石巻漁港へとビッグボーイを走らせた。 遅々として復興の進まなかった石巻漁港とその周辺だが、やっと動き出した。漁港の岸壁はかさ上げされ、漁船が接岸している。仮設の魚市場も完成した。水産加工場も次々に完成している。東北太平洋岸有数の漁港、石巻港が復興すれば、石巻の町全体が活気づく。1日も早い復興を願うばかりだ。

 うれしかったのは仮設の市場食堂、「斉太郎食堂」の営業再開だ。

 以前の「斉太郎食堂」と比べるとずいぶん狭くなったが、食堂内はほぼ満員という盛況ぶり。すこし早めの昼食にし、「海鮮丼」(1000円)を食べた。

 石巻漁港の魚市場内にあった頃の「斉太郎食堂」はほんとうによかった。ぼくは日本一の市場食堂だと評価していた。早朝から営業していたし、メニューは多彩で料金は安く、ボリュームも満点。魚介類の新鮮さは群を抜いていた。ゆったり気分で食べられる広い食堂で、三陸の「海の幸」を味わいながら漁業関係者の会話をそれとなく聞くのが大きな楽しみだった。客の大半は漁業関係者だった。

 石巻からは国道398号で女川へ。万石浦沿いに走り、女川町に入る。万石浦沿いの女川は大津波の被害をまったく受けていない。ところがJR石巻線浦宿駅前を過ぎ、ゆるやかな峠を登り、峠上の女川高校を過ぎると風景は一変し、全滅した女川の中心街が眼の中に飛び込んでくる。被災地の瓦礫は撤去されていたが、倒壊してひっくり返ったビルはそのまま残されている。ここで驚かされたのは、町中を貫く新しい国道だ。計画路線は見上げるような高さを通ることになっている。

 女川から国道398号で三陸リアス式海岸を行く。ふたたび石巻市に入り、雄勝へ。 大津波のメモリーだった公民館の屋根上に乗ったバスは3・11から1年を機に下に降ろされたが、その公民館も取り壊されていた。雄勝湾の一番奥の雄勝には何も残っていない。ひとつの町が完全に消えた。復興の芽すら見えない。

 雄勝から釜谷峠を越えると東北一の大河、北上川の河畔に出る。そこには新北上大橋がかかっている。橋の一部が流されたので、長らく通行止になっていたが、今はその区間に仮橋がかかっているので何ら問題なく通行できる。

 新北上大橋のたもとの右手には、今回の大津波では一番の悲劇の舞台になったといっていい大川小学校がある。ここでは78人の生徒と11人の職員が大津波に流された。そのうち助かったのは4人の生徒と1人の職員だけだった。ここは北上川河口から約5キロの地点。太平洋から5キロも離れた内陸まで、これだけの大津波が押し寄せるとは誰も想像もしなかったのだろう。大川小学校の校舎はまだ残っていた。

 新北上大橋を渡り、旧北上町に入っていく。北上川の川沿いには吉浜小学校がある。この吉浜小学校にも大津波が押し寄せた。3階建校舎の3階までが浸水した。校舎の正面にある時計は地震発生時の14時46分で止まっている。この時、吉浜小学校はすでに放課後で、49人の生徒のうち、卒業式の準備で残っていた6人の生徒と教職員は校舎の屋上に逃げて助かった。

 吉浜小学校のすぐ近くには避難所になっていた石巻市北上総合支所がある。ここでは悲惨を極め、避難してきた57人の内、何と54人もの人たちが亡くなった。その中には吉浜小学校の生徒が7人もいた。

 白浜岬で北上川の河口を見たあと、相川漁港に行く。ここには相川小学校がある。海岸のすぐ近くにあるのにもかかわらず、70余名の生徒、全員が無事だった。地震発生と同時に生徒たちは教職員と一緒に小学校の裏山を駆け登った。その3日前に相川小学校では津波非難訓練がおこなわれた。先生や生徒たちは避難訓練通り、迷うことなく裏山に登った。相川小学校の裏山というのは、大川小学校の裏山よりもはるかに急な登りだ。

 同じ石巻市内にある大川小学校と吉浜小学校、相川小学校の3校はれぞれの明暗を分けてしまったが、とくに大川小学校と相川小学校の違いはただひとつ、常日頃から津波避難訓練をしていたかどうか、ということである。

 国道398号を北へ、石巻市から南三陸町に入る。三陸屈指の海岸美を誇る神割崎の真っ二つに割れた「神割伝説」の大岩を見、大津波を連想させる「波伝谷」を通り、国道45号に合流する。以前は「海の畑」を思わせる志津川湾だったが、養殖筏は大津波で根こそぎやられ、まる裸にされたような海になってしまった。そんな志津川湾にもかなりの養殖筏が見られるようになっていた。

 志津川の町中に入っていくと、震災から2年が過ぎたというのに、復興にはほど遠い光景がひろがっている。志津川漁港に行くと大津波によって破壊された防潮堤はそのままだが、造船所が仕事を再開し、新しい漁船を造っていた。

 志津川につづいて歌津の町に入っていく。ここも壊滅状態。海沿いを走る国道45号の橋は落ちたままだ。そんな歌津の町並みをJR気仙沼線歌津駅から見下ろした。線路が流された気仙沼線の開通の見込みはまったくたたず、代行バスが走っている。

南三陸町」というのは2005年10月に志津川町歌津町が合併して誕生した町。震災前はほとんどの人が知らなかったような町名だが、今回の大津波で全国に知られるようになった。

三陸」も同じことがいえる。

 明治29年(1896年)6月15日の「明治三陸津波」は、死者2万1959人、行方不明者44人という未曽有の大災害になってしまったが、この大津波で「三陸」の名は日本全国に知れ渡り、その名が定着した。

 国道45号で南三陸町から気仙沼市に入っていく。気仙沼では潮吹岩で知られる岩井崎に寄り道した。国道45号から岬までの道沿いは大津波にやられ、すさまじい惨状を見せていた。これが震災から2年という時間のすごさとでもいおうか、瓦礫はきれいに取り除かれ、不思議なほどの落ち着きを見せていた。

 岩井崎の食堂や土産物店、旅館はすべて大津波によって破壊された。それが何とも不思議なことに、岬の突端に建つ第9代横綱秀ノ山像は無傷で残った。ここも「奇跡のポイント」。なお秀ノ山両国国技館入口の壁画で大きく描かれている横綱だ。

 岩井崎をあとにし、気仙沼の中心街に入っていく。

 JR気仙沼線南気仙沼駅周辺は大津波に激しくやられたところだが、大震災から2年がたち、浸水した水は完全に引いていた。手つかずだった瓦礫も大半が撤去されている。それが気仙沼線の終点の気仙沼駅周辺になると、ほとんど大津波の被害を受けていない。わずかな高さの違い、地形の違いによって、これほどまでの差が出るのが「津波被害」なのである。

 気仙沼湾は奥深くまで切れ込んだ海。その海を突っ切って何隻もの大型漁船が陸地に乗り上げた。震災直後は折り重なった乗り上げ船の下をくぐり抜けていく迷路のような道もあった。それが、今では大型漁船1隻を残して、すべての乗り上げ船は撤去された。残った乗り上げ船をめぐって保存か撤去かで今、気仙沼は議論の最中だ。

東日本大震災」からから2年がたって、石巻の「鯨大和煮」の缶詰型大看板や雄勝の公民館屋上に乗り上げたバスなど、大津波のシンボル的なものはすでに撤去されてなくなっている。この気仙沼の乗り上げ船などが保存の方向に動いているが、今回の大津波のすさまじさを後世に伝える3・11の記念碑的なものは「復興」とともに必要なことではないかと感じるのだった。

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(18)

■2013年3月13日(水)晴「蒲庭温泉→宮戸島」191キロ(木)(その2)

 名取市閖上を出発。県道10号で名取川を渡り、仙台市に入る。そして県道10号を右折して荒浜へ。

 東日本大震災当日の2011年3月11日、ぼくは家にいた。超巨大地震の発生後はテレビの画面に釘付けになった。大津波による被害の情報が次々にもたらされる中で、ものすごいショックを受けたのは「浜に200人ほどの死体が打ち上げられている」というニュースが流れた時だ。

「これはとんでもない災害になってしまった…」

 と実感したが、それがこの仙台市若林区の荒浜だった。

 県道10号沿いの荒浜小学校の4階建の建物はまだ残っていたが、それ以外には家一軒見られない。一面の荒野の中に貞山堀が一直線になって延びている。日本最大の運河、貞山堀は伊達政宗の夢の跡。海岸には大津波から2年後の3月11日に開眼供養が行なわれた聖観音像が立っている。石碑には荒浜の全犠牲者の名前と年齢が彫り刻まれているが、2歳とか4歳、5歳…といった子供達の名前が胸にグサッと突き刺さってくる。あまりにも酷い現実だ。

 仙台港周辺も大きな被害を受けたところだが、大半の工場はすでに操業を再開している。小名浜同様、ここでも臨海工業地帯の復興は速い。

 県道10号から国道45号に合流し多賀城へ。多賀城では陸奥国府多賀城跡まで行った。多賀城跡は無事。「奥の細道」ゆかりの壷碑も無事だ。

 今回の大津波は死者2万1959人を出した明治29年(1896年)の「明治三陸津波」同様、日本史上、最大といわれる869年の「貞観の大津波」に迫るものだ。

貞観の大津波」で陸奥国府は全滅した。多賀城跡だけでの比較でいえば、やはり1150年前の「貞観の大津波」の方がより大きな津波だったということになる。

 多賀城から七ヶ浜半島に入っていく。半島全体が七ヶ浜町になっているが、海岸地帯は大津波に襲われて大きな被害を出し、100人近い犠牲者を出した。そのような海岸のすぐ近くでも高台の家々は残っていた。

 七ヶ浜から塩竃へ。塩竃では奥州の一の宮塩竃神社を参拝した。塩竈神社の参拝客は震災直後に比べたら、はるかに増えている。それだけ周辺の被災地が落ち着きを取り戻したからなのだろう。

 塩竃漁港は東北太平洋岸の漁業基地だが、震災のすぐ直後から魚市場は再開された。松島湾内に位置する塩竃は、七ヶ浜半島や松島湾の湾口に連なる桂島や野々島、寒風沢島といった浦戸諸島の島々に守られたおかげで、それほど大きな被害を受けずにすんだ。

 塩竃から松島へ。松島も大津波の被害はそれほどでもなく、シンボルの五大堂や国宝の瑞厳寺も無傷で残った。国道45号沿いの土産物店はいつも通りの営業で、松島湾の遊覧船も運航していた。

 復興一番乗りの松島は、大津波から2年後ということもあって、観光客はかなり戻ってきているように見受けられた。この日は平日にもかかわらず、若いカップルたちの姿を多く見かけた。

 松島からは海沿いの県道27号を行く。

 松島町から東松島市に入るとそこは「大塚」。JR仙石線陸前大塚駅が海岸にある。駅も駅前の家並みも無傷。大津波の痕跡はまったく見られない。その次が「東名」で、ここには東名駅がある。

「大塚ー東名」間はわずか2キロでしかないが、この2キロが同じ松島湾岸を天国と地獄を分けた。ゆるやかな峠を越えて東名に入ると信じられないような惨状だ。大津波から2年になるが、依然として復興とはほど遠い光景をそのまま残していた。

 東名を流れる東名運河は石巻港と荒浜港(亘理町)を結ぶ運河の一部。北からいうと北上運河、東名運河、貞山運河(貞山堀)の3運河で石巻港と荒浜港が結ばれていたが、現在は運河としての役目を終え、灌漑用の水路になっている程度でしかない。

 太平洋と平行して流れるこれらの3運河が大津波襲来の際、どのような働きをし、かかわったかをすごく知りたいものだ。この運河のおかげで大津波がすこしでも弱まったのか、それとも逆に被害を拡大させたのか。

 東名から野蒜へ。ここも大津波をまともに受けたところ。JR仙石線野蒜駅前でビッグボーイを停めた。駅前の県道27号の倒れた信号は撤去されていたが、架線の垂れ下がった野蒜駅はそのまま残っていた。錆びた線路もそのままだ。駅前のコンビニも店内が足の踏み場もないようなメチャメチャの状態で残っていた。東名から野蒜一帯を襲った大津波松島湾からではなく、石巻湾の方から野蒜海岸の防潮堤を乗り越えて押し寄せてきたという。

 野蒜駅前からさらに県道27号を行く。鳴瀬川河口の堤防上のT字路を右折し、野蒜海岸を行く。大きな被害を受けた防潮堤は仮の修復工事が行なわれていた。東名、野蒜を襲った大津波はこの防潮堤を乗り越えたのかと思うとぞっとした。

 野蒜海岸から短い橋を渡って宮戸島に入る。よほど気をつけていないと、気がつかないような短い橋だ。震災ではこの橋が落下し、宮戸島は孤立した。松島四大観の筆頭、「壮観(大高森山展望台)」の下を通り、里浜から月浜、大浜と通って室浜へ。「日本三大渓」のひとつ、嵯峨渓のある室浜が県道27号の終点になっている。

 宮戸島の集落は松島湾の内海に面した里浜と太平洋の外海に面した月浜、大浜、室浜の4つの集落から成っている。人口はほぼ1000人。月浜、大浜、室浜はかなりの被害を受けた。大津波の直後は東名や野蒜で大きな被害が出たこともあり、宮戸島に入る橋が落下したこともあり、宮戸島の状況が東松島市の市役所には届かなかった。一時は1000人の島民全員が絶望視された。ところが実際には1人の犠牲者も出さなかった。これはすごいことだ。まさに「奇跡の島」。大地震の直後、「津波が来る!」ということで、島民全員がすばやく避難したからだ。

 宮戸島の島民のみなさんは、小さい頃から「地震が起きたら津波が来る」と頭にたたき込まれているという。避難してからがじつにすごい。無事だった家を中心にして島の米を集め、すぐに炊き出しが始まった。そのため島は孤立したが、救援隊が入ってくるまでの何日間かを島民のみなさんは互いに励ましあい、助け合って全員が生き延びたのだ。

 宮戸島では民宿「桜荘」に泊まった。窓を開けると、目の前には絵のように美しい松島湾が広がっている。この海が大津波の直後は瓦礫の海と化した。一面に埋め尽くされた瓦礫のせいで、海なのか陸なのか、わからないほどだったという。

「桜荘」の夕食はご馳走だ。刺身の盛合わせ、カニとツブ貝、キンキ(金目)の焼き魚、しめ鯖、サーモンの和え物、ワカメの辛し味噌和え、貝やエビなどの海鮮鍋と海の幸三昧。さらにそのあとカキの殻焼き、ホタテの貝焼き、カレーの唐揚げが出た。こんなにすごいご馳走なのに1泊2食の宿泊費は7870円だった。

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(17)

■2013年3月13日(水)晴「蒲庭温泉→宮戸島」191キロ(木)(その1)

 蒲庭温泉「蒲庭館」の朝湯に入り、朝食を食べ、8時出発。相馬から松川浦へ。松川浦では海苔の養殖が始まっていた。漁船は岸壁に停泊したままで、まだ本格的な漁の再開とはいかないようだ。鵜の尾岬に渡る松川浦大橋は通行止がつづいていた。

 松川浦からは海沿いの県道30号を行く。新地の石炭火力の発電所前を通り、大津波で壊滅した新地の町跡をビッグボーイで走り抜けていく。瓦礫はきれいに撤去されているが、その中に家々の土台だけが残っている。県道30号の宮城県境近くの橋は落ちたままだ。

 JR常磐線新地駅に行ってみる。大津波に襲われてグニャッと折れ曲がった跨線橋は撤去され、線路も撤去されていた。駅前の瓦礫の山は消え去り、新しい土地の造成工事が始まっていた。見上げるような、かなりの高さの造成地。その上に復興住宅の建ち並ぶ日が待ち遠しい。

 国道6号で福島県の新地町から宮城県の山元町に入る。ここでもJR常磐線の坂元駅まで行ってみる。坂元駅は一段高くなっているので、ホームは残った。ホームが防波堤の役目をしたからなのだろう、駅前の案内板も残っていた。

 この一帯では「国交省 海岸工事」のゼッケンをつけたおびただしい数のダンプカーが走りまわっていた。福島県よりも宮城県の方が、はるかに海岸線の復興工事が進んでいるように見える。福島県では東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故が大きな足かせになっているようだ。

 坂元駅につづいて次の山下駅にも行ってみる。山元町は山下村と坂元村が昭和30年(1955年)に合併してできた町。山下駅が旧山下村の駅、坂元駅が旧坂元村の駅ということになる。山下駅の周辺のかさ上げした宅地造成はかなり進み、すでに新しい家が建ち始めている。それは目に見える東北太平洋岸の復興の姿だった。

 山下駅前から国道6号に戻り、北へとビッグボーイを走らせる。

 山元ICを通る。常磐道の延伸は進み、仙台方面からだと山元ICまで完成している。この山元ICは国道6号のすぐ脇なので簡単に出入りできるのがすごくいい。

 福島県内の常磐道は相馬ICと南相馬ICの間が完成している。相馬ICと山元ICの間が1日も早くつながって欲しい。そうすることによって、相馬地方の復興にはきっと大きな弾みがつくことであろう。

 国道6号で亘理町に入っていく。ここからは太平洋沿岸ルートの県道10号を行く。この県道10号は三陸海岸への絶好の抜け道になっている。

 亘理でも亘理駅に立ち寄った。常磐線は仙台から亘理までは開通している。鉄道が復旧すると、町には活気が蘇る。

 伊達支藩の城下町の亘理だけあって、駅舎の隣りには亘理城を模した造りの郷土資料館がある。伊達成実以来、亘理伊達家は15代つづいた。明治維新を迎えると、城下の士族たちは北海道に渡り、伊達紋別の新地を開拓した。郷土資料館ではそんな城下町としての亘理の歴史を見ることができる。

 亘理駅前から阿武隈川河口の荒浜へ。ここは阿武隈川船運の拠点としておおいに繁栄した港町。伊達藩の時代は塩釜と並ぶ2大港になっていた。その荒浜が大津波の直撃を受けて壊滅的な被害を受けた。震災直後は荒浜中学校の広いを敷地を自衛隊の災害復旧支援の大型車両が埋め尽くしていたが、それがまるで幻だったかのように今は何もない。校舎も取り壊されて広々とした更地になっていた。

 荒浜漁港に行くと港はずいぶんと整備され、漁も再開されていた。荒浜漁港は阿武隈川の河口ではなく、河口南側の潟湖、鳥の海に面している。その海への出口近くに温泉施設の「鳥の海」がある。大改装して4階建にして間もなく大津波に襲われた。建物は残っているが、再開の見込みはまったくないという。「鳥の海」の前にあった巨大な瓦礫の山はきれいに撤去されていた。

 県道10号で阿武隈川を渡り、名取市に入る。県道10号沿いの「KUMA食堂」で「カレーライス」(500円)を食べた。安くてボリュームがあってうまいカレーライス。「KUMA食堂」は県道10号のおすすめ食堂だ。

 昼食のカレーライスでパワーアップしたところで、県道10号をさらに北へ。仙台空港の滑走路の下をトンネルで抜けていく。震災直後はこの区間は通行止になっていた。周辺はすさまじいほどの惨状だった。大津波によって破壊された軽飛行機が何基も折り重なり、沼のような水溜りには何台もの車が沈んでいた。それもまるで幻だったかのように、今では痕跡すら見ることもできない。

 名取川河口の閖上へ。震災前まではにぎわった漁港で、「閖上朝市」で知られていた。 高さ20メートル超の大津波に襲われた閖上の惨状はすさまじいばかりで、まるで絨毯爆撃をくらって町全体が焼き払われた跡のようだ。ここだけで1000人近い犠牲者を出している。そんな閖上だが、瓦礫はきれいに撤去され、今ではきれいさっぱりと何も残っていない。港近くの日和山に登り、無人の広野と化した閖上を一望した。

 日和山というのは日和待ちの船乗りが日和見をするために登る港近くの小山のことで、酒田や石巻日和山はよく知られている。日和山があるということは、閖上も古くから栄えた港町だったことを証明している。

 江戸時代の閖上は、伊達政宗の時代に掘られたという貞山堀を通して、阿武隈川河口の荒浜と七北田河口の蒲生の中継地として栄えた。ちなみに蒲生にも標高6メートルの日和山があった。「元祖・日本で一番低い山」として知られていたが、今回の大津波で蒲生の日和山は根こそぎ流され、山が消えた。

 ところで閖上(ゆりあげ)の地名だが、伊達政宗豊臣秀吉から贈られた門を船で運び、ここで陸揚げしたことに由来しているという。閖上日和山には高さ2・5メートルの木柱が2本、立っている。1本には富主姫神社、もう1本には閖上湊神社と書かれている。これは2つの神社の、神が宿るための神籬だ。

 もともと「日和山富士」とか「閖上富士」といわれた日和山には、日和山富士主姫神社がまつられていた。大津波日和山をも飲み込んだので、日和山富士主姫神社は流された。日和山から600メートルほど北にあった閖上湊神社も流された。この両神社は閖上のみなさんにとっては心の故郷。ということで、日和山両神社の仮設の社ということで2本の神籬が立てられたのだ。閖上の貞山堀にかかる橋にはカーネーションの白い花が並べられていた。

 貞山堀の橋を渡ったところには、

「ふるさと閖上 大好き」

 と大きく書かれた看板が立っていた。

 閖上漁港に行くと、仮設の魚市場が完成していた。漁港の岸壁は工事中。対岸では瓦礫処理の焼却場が大きな音をたてて稼動していた。その音は「閖上復興」への音のようにも聞こえた。