賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(21)

■2013年3月15日(金)晴「大船渡→三沢」292キロ(その1)

 富山温泉「沢乃湯」の朝湯に入ってから出発。大船渡から県道9号で綾里へ。

 綾里漁港では漁民総出といった賑わいで収穫したワカメを岸壁に揚げていた。活気に満ちあふれた漁港の光景。水揚げされたワカメはすばやく大釜でゆでられる。

 三陸鉄道南リアス線綾里駅前には明治三陸津波と昭和三陸津波の被害状況が克明に記されている。それには「津波の恐ろしさを語り合い、高台に避難することを後世に伝えてください」と書かれている。

 綾里は今回の「平成三陸津波」でも40・1メートルの最大波高を記録したが、「津波教育」が徹底しているおかげで死者は30人ほどですんだ。ちなみに明治三陸津波(1896年6月15日)では、旧綾里村では1269人もの死者を出している。

 越喜来で国道45号に合流し、羅生峠を越え、吉浜湾の吉浜へ。ここまでが大船渡市になる。吉浜からは鍬台峠を越え、釜石市に入った。

 国道45号の峠はすべて長いトンネルで貫かれているが、峠を越えると海が変る。鍬台峠を越えると唐丹湾になるが、湾岸の小白浜は巨大防潮堤がなぎ倒された現場。破壊された巨大防潮堤はそのままの姿で残っていた。この小白浜の巨大防潮堤の半分は破壊されたが、もう半分は無傷で残っている。

 釜石市内に入る。震災2年後の釜石の目抜き通りは、ずいぶんときれいになっていた。釜石の中心街を走り抜け、釜石港へ。ここでは港の防潮堤を突き破って5000トン級の大型貨物船が乗り上げた。その船は日本最大級のクレーン船によって吊り上げられ、海に戻されたが、船が突き破ってできた防潮堤の破壊箇所はそのまま残っていた。

 釜石を出発。国道45号を行く。大槌の手前が鵜住居で、ここまでが釜石市になる。

 鵜住居釜石市最大の被災地。ここだけで1000人もの犠牲者が出た。悲劇だったのは津波避難訓練に使われていた鵜住居地区防災センターに避難した100人以上もの人たちが亡くなったことだ。その防災センターは廃墟と化した町並みの中にポツンと残っていた。

 釜石市から大槌町に入る。

 大槌町では、地震発生時、町役場前で防災会議を開いた当時の町長や町役場の職員40人が亡くなるなど1300人が犠牲になった。すさまじい数字だ。町役場はまだ残っているが、「平成三陸津波」のメモリアルとして残そうという意見と、「もう見るのもいやだ、すぐに撤去して欲しい」という意見に割れ、町を二分した。その結果、一部を残すことに決まった。町としては広島の「原爆ドーム」をイメージしているようだ。大槌の町中には1344人の犠牲者を悼む「慰霊1344広場」が開設されていた。その前で手を合わせた。

 大槌町から山田町に入る。

 山田も大津波に襲われて大きな被害を受け、700人以上もの犠牲者が出た。鵜住居、大槌、山田と、三陸海岸のこの狭いエリアだけで3000人以上もの多くの命が奪われた。鵜住居から山田までは20キロほど。ビッグボーイで走れば30分ほどの距離でしかない。

 壊滅的な被害を受けた山田だが、隣合った2つの町、大槌と山田には大きな違いがある。それは町役場だ。大槌の町役場は津波の直撃を受けて全壊。それに対して山田の高台にある町役場は残った。司令塔を失った大槌と、司令塔の残った山田、この隣合った2つの町は対照的だ。

 山田の町役場の隣には八幡宮があり、参道の入口には「津波記念碑」が建っている。それは1933年3月3日の昭和三陸津波の後に建てられたものだ。

 山田の「津波記念碑」には次のように書かれている。

  1、大地震のあとには津波が来る

  1、地震があったら高い所に集まれ

  1、津波に追われたら何所でも此所位高い所へ登れ

  1、遠くへ逃げては津波に追い付かれる。近くの高い所を用意して置け

  1、県指定の住宅適地より低い所へ家を建てるな

 山田の町役場は「津波記念碑」の教えを忠実に守り、それと同じ高さのところに建っているので無事だった。それに対して山田の町並みは「津波記念碑」の教えを無視し、それよりも下に町並みを再建したので、明治三陸津波、昭和三陸津波にひきつづいて今回の平成三陸津波でも、町が壊滅状態になってしまった。

 山田の町から船越半島に渡ったところには「カキ小屋」がオープンしていた。そこで「カキフライ定食」(900円)を食べた。うまい山田湾産のカキだった。

 山田湾の青い海には大分、養殖用の筏が見られるようになった。山田漁港に行くと、ずいぶんと活気が戻っていた。おびただしい数のカモメが、山田漁港に水揚げされる漁獲量の増えていることを証明しているかのようだった。