「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(4)
■2012年3月13日(火)晴のち雪 「石巻→田老」230キロ
民宿「小滝荘」の朝食を食べ、7時出発。スズキV-ストロームを走らせ、相川漁港へ。ちょうどそこでは三陸産ワカメの水揚げが始まっていた。みなさんの生き生きとした表情が印象的。やっとワカメを採れるようになったという喜びが満ちあふれていた。
「写真を撮らせてくださーい!」と声を掛けると、漁師の奥さんは「兄さん、ちょっと待っててね。今、家に帰ってツケマツゲしてくるから」という。何という明るさ、茶目っ気。その一言で全員、大爆笑。
その奥さんは「あそこの大鍋でさっと茹でて食べなさい」といて採れたてのワカメをポンと投げてくれた。いわれたとおり、グラグラ煮立った大鍋にワカメを入れるとコンブ色のワカメがその瞬間、きれいな緑色に変る。それをむさぼり喰った。じつにうまいものだ。港に揚げたワカメはこのようにしてさっと茹で上げるという。
相川漁港のワカメ採りのみなさんに別れを告げ、漁港近くの相川小学校に行く。3階建の校舎は3階まで全滅していたが、70余名の生徒全員は学校の裏山に駆け登り、一人の犠牲者も出さなかった。これはすごいことだ。
相川から国道398号を北上し、石巻市から南三陸町に入る。神割崎の真二つに割れた「神割伝説」の大岩を見て、大津波を連想させる地名の「波伝谷」を通り、国道45号に合流した。
以前は「海の畑」を思わせる志津川湾だったが、養殖筏は大津波で根こそぎやられ、まる裸にされたような海になってしまった。そんな志津川湾に少しづつだが、養殖筏が増えはじめている。志津川湾を見下ろす弁天崎の南三陸温泉「観洋」は無傷で残り、震災直後は避難所になっていてが、今は営業を再開している。温泉のほとんどない三陸海岸なだけにここは貴重な存在だ。
志津川の町中に入っていくと、震災から1年が過ぎたというのに茫然としてしまうような光景が広がっている。復興にはほど遠い光景。その中にあってポツンと1軒、仮店舗で営業を始めた店があった。その店の前でV-ストロームを停め、自販機のカンコーヒーを飲んだ。それと目についたのは「蔵八ラーメン亭」というバスのラーメン屋。残念ながらまだ営業時間前で食べられなかったが…。
志津川につづいて歌津の町に入っていく。ここも壊滅状態。海沿いを走る国道45号の高架橋は落ちたままだ。そんな歌津の町並みをJR気仙沼線の歌津駅から見下ろした。線路が流された気仙沼線の開通の見込みはまったくたっていない。「ウタツギョリュウ」の化石が展示されていた「魚竜館」も大きな被害を受けたまま閉鎖されている。南三陸町というのは2005年10月に志津川町と歌津町が合併して誕生した町だ。
国道45号で南三陸町から気仙沼市に入っていく。元吉の手前で津谷川の河口にかかる小泉大橋の仮橋を渡った。この仮橋の完成以前は、狭い迂回路に入り、大きく迂回しなくてはならなかったが、こうして三陸海岸幹線の国道45号が普通に通れるようになると、復興に向かって一歩づつ進んでいるのを実感できる。
気仙沼では潮吹岩で知られる岩井崎に寄り道した。国道45号から岬までの道沿いは大津波にやられたままで、生々しい大津波の爪痕を見せている。岩井崎の食堂や土産物店、旅館もすべて破壊されていた。それが何とも不思議なことに、岬の突端に建つ第9代横綱の秀ノ山像は無傷で残った。ここはまさに「奇跡のポイント」だ。
岩井崎をあとにして、気仙沼の中心街に入っていく。
JR気仙沼線の南気仙沼駅周辺は大津波に激しくやられたところで、大震災から1年がたち、やっと水が引きはじめている。遅れていた瓦礫撤去が本格的に始まったという状態。それが気仙沼駅の周辺になるとまったく大津波の被害を受けていない。ほんのわずかな高さの違い、地形の違いでこれほどまでの差が出るのが津波の被害だ。
気仙沼湾は奥深くまで切れ込んだ海。その海を突っ切って何隻もの大型の漁船が陸地に乗り上げた。大震災2ヵ月後の時点では折り重なった乗り上げ船の下をくぐり抜けていく迷路のような道もあったが、今ではその大半はとり除かれている。
気仙沼では仮設商店街の「復幸マルシェ」が完成し、その中にある食堂「団平」で昼食。「釜あげうどん」(600円)を食べた。
気仙沼から国道45号を北上。県境を越え、宮城県から岩手県の陸前高田市に入っていく。
気仙川の河口にかかる気仙大橋は大津波で流された。そのため陸前高田の町に入っていくのには、気仙川沿いにさかのぼり、大きく迂回し、国道343号→340号で荒野と化した陸前高田の町中を走り抜け、気仙大橋の対岸に渡らなくてはならなかった。大変な時間のロスだった。それが仮橋の完成で、今では震災以前と同じように陸前高田の町に入っていけるようになっている。
今回の大震災では一番、といってもいいような大津波の被害を受けた陸前高田は壊滅状態。瓦礫はほとんど撤去され、うず高く積まれていた瓦礫の山も大分、処分されていた。しかしあまりにもすさまじくやられたので、復興の芽すら見られないというのが現状だ。「日本三大松原」に次ぐくらいの高田松原は全滅し、7万本以上もあった海岸の松はすべて流された。その中でかろうじて残ったのが「奇跡の松」。何としても生き延び、陸前高田の復興のシンボルになってもらいたいものだったが、潮をかぶった松は残念ながら立ってはいるものの枯れてしまった。
陸前高田から通岡峠を越え、大船渡市に入っていく。
国道45号から海沿いの道に入り、魚市場でV-ストロームを停めた。魚市場は再開されている。魚市場が再開されると町は活気づく。魚市場前にはコンビニの「ヤマザキ」が新しくオープンしている。
JR大船渡線(運休中)の線路に沿って走り、大船渡の中心街へ。瓦礫はほとんど取り除かれている。大船渡駅の周辺が大船渡の中心街だったが、町は壊滅状態。さらに大船渡線の線路に沿って走り、盛駅へ。そこが大船渡線の終点だが、盛駅の駅前通り周辺は大津波の影響をほとんど受けていない。ここでもわずかな高さの違い、地形の違いによる大津波の被害の有無、濃淡を見せつけられた。
大船渡から県道9号で綾里へ。綾里漁港では岸壁にいた漁師の話を聞いた。その人は大地震の直後、船を沖に出して無事だったという。このあたりの海はすぐに深くなるので港外に出れば高波やられることはないという。何度となく大津波に襲われてきた綾里の人ならではの話だ。
地盤沈下した綾里漁港の岸壁は70センチ、かさ上げされていた。それでも綾里漁港の復興はまだまだ先だという。
「2年、3年ではどうしようもない。20年、30年でも無理だな。元通りになるまでに50年はかかるな。その頃にはまた次の大津波がやってくるよ」
といって笑った漁師さんだが、その言葉は胸に残った。
綾里漁港前の高台上の家々は無事、その下の家々は全滅という1本の線を境にして明暗を分けていた。高台上の家々は昭和三陸大津波(1933年3月3日)のあと、高台に移転して造られた。高台下の家々は最近になって造られた。
三陸鉄道南リアス線の綾里駅前には明治三陸大津波と昭和三陸大津波の被害状況が克明に記されている。それには「津波の恐ろしさを語り合い、高台に避難することを後世に伝えてください」と書かれている。
綾里は今回の大津波でも40メートル超の最大波高の大津波に襲われたが、「津波教育」が徹底しているおかげで死者は30人ほどですんだ。ちなみに明治三陸大津波では旧綾里村では1269人もの死者を出している。
国道45号に合流すると羅生峠を越え、吉浜湾の吉浜へ。ここまでが大船渡市になる。 吉浜では吉浜川の河口に行った。堤防は大津波にやられ、かなり破壊されている。それにもかかわらず吉浜の集落にはほとんど被害が出ていない。その理由は綾里と同じで、昭和三陸大津波のあと、集落を高台に移したからだ。そんな吉浜の河口からは「津波石」が見つかった。昭和三陸大津波の記録が彫り刻まれていた「津波石」が今回の大津波で土砂が取り除かれ、地表に姿を現したのだ。
吉浜からは鍬台峠を越え、釜石市に入る。
国道45号の峠はすべて長いトンネルで貫かれているが、峠を越えると海が変る。
鍬台峠を越えると唐丹湾になる。唐丹湾岸の小白浜の海岸は巨大防潮堤がなぎ倒された現場だが、高台下の瓦礫はきれいに撤去されていた。この破壊された巨大防潮堤を見ると、大津波のすさまじさを実感するが、その反面、半分はきれいに残っているので工事に手抜きはなかったのか…という疑問にもとらわれる。
釜石市内に入ると釜石港へ。地盤が沈下した影響で釜石港周辺はかなりの地域が浸水したままだ。そんな釜石港の堤防を突き破って3000トン級の大型貨物船、パナマ船籍の中国船「アジアシンフォニー」が乗り上げた。今回の大津波を象徴するかのような乗り上げ船。その中にあって最大の「アジアシンフォニー」も、昨年の10月には日本最大級のクレーン船によって吊り上げられ、海に戻された。しかし釜石港の復興はまだまだ遠いものがあり、閉鎖された港内には入れなかった。
釜石から大槌、山田と通り、宮古へ。
大槌、山田ともに大きな被害を出したところだ。
山田では山田漁港周辺の巨大防潮堤を見てまわった。防潮堤は残ったのに、山田の中心街は壊滅状態。大津波はこの巨大防潮堤を軽々と乗り越えたいった。
山田では車に乗ったkoshiさんに出会った。いままでに何度となく会った人。koshiさんと一緒に宮古まで行く。天気は崩れ、雪になった。ブナ峠が難所だったが、無事に越えられた。
宮古に到着したのは日が暮れたころ。かなりの雪でボソボソ降っている。
宮古の町を過ぎたところでkoshiさんと別れた。
宮古からはナイトラン。雪の国道45号を行く。気温が急激に下がり、雪が激しくなる。あっというまに路面は真っ白になる。
「ヤバイ!」
このままでは転倒だ…。V-ストロームの速度を落とし、路肩をソロソロと走る。トンネルを抜け出た下り坂が恐怖。
「あー、もうダメだ…」
と何度、思ったことか。
田老に近づいた。そのときV-ストロームのすぐ後を走ってくれている車に気がついた。何とkoshiさんが心配して戻ってきてくれたのだ。
田老に到着。とにかく三陸鉄道の田老駅まで行こうと思った。それが簡単ではない。国道45号を左に折れ、わずかに下らなくてはならない。
「ここは勝負だ!」
ツルツルの雪道を清水の舞台から飛び降りるような気持ちで下り、ついに転倒することなく田老駅に着いた。
雪はより激しくなり、もうまったく身動きがとれない。こういうときのためにキャンピング用具一式を持ってきていたので、田老駅の駐車場でひと晩、寝ようと思った。
するとkoshiさんは「バイクを置いて、グリーンピアまで行ってみましょう」という。V-ストロームを田老駅の駐車場に置くと、koshiさんの車に乗せてもらい、田老の「グリーンピア三陸みやこ」まで行った。すると何ともラッキーなことに泊まれた。
レストランで一緒に食事したが、koshiさんは地獄で出会った仏のような人だった。