賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

東アジア走破行(17)環日本海ツーリング(2)

 サハリン西岸最大の港湾都市、ホルムスク(真岡)の人口は5万人。サハリンでは第2の都市になっている。我々はホルムスク駅前でバイクを止めたが、ここは正確にいうとホルムスク北駅。ホルムスクにはもうひとつホルムスク南駅があるが、今は使われていないようだ。このホルムスク北駅とホルムスク南駅の間にロシア本土のワニノの渡る鉄道連絡船の出るフェリー埠頭がある。我々はバイクともどもこのフェリーに乗ってワニノに渡るのだ。フェリーは1日1便。出港は14時とのことだが、それが夕方に延びた。

 ホルムスク駅構内のカフェでパンとスープ、ジャガイモと豆を添えた肉料理を食べたあと、ホルムスクの南へ、日本海の海岸まで行ってみる。

 フェリー埠頭前を通り、ホルムスク南駅前を過ぎると跨線橋で線路をまたぐ。この鉄道はサハリンの西海岸を縦貫する西部本線で南はネベリスク(本斗)からシャフタに通じている。稚内姉妹都市になっているネベリスクは戦前、稚内から稚斗連絡船の出ていた港町。稚内と大泊(コルサコフ)を結ぶ稚泊航路の連絡船は1日2便で、稚内と本斗を結ぶ稚斗連絡船は1日1便だったという。

 西部本線の跨線橋の上からは旧王子製紙真岡工場がよく見えた。1991年の「サハリン周遊」ではホルムスク港に上陸したが、そのときは王子製紙の工場がそのまま使われ、工場からは黒い煙が立ち登っていた。今は煙突から煙は立ち登っていないが、その一部はまだ使われているようだ。王子製紙の工場はオホーツク海側の敷香(ポロナイスク)工場が最大で、2000年の「サハリン縦断」の時には王子製紙の工場がそのまま使われていた。サハリンの西海岸では、ホルムスクの北の野田(チェーホフ)と泊居(トマリ)、それと恵須取(ウグレゴルスク)に王子製紙の工場があった。このように王子製紙は日本時代の樺太に大きな足跡を残している。

 旧王子製紙の工場前を走り過ぎ、しばらく行くと舗装路は途切れ、ダートに突入する。海を右手に見る地点でバイクを止め、我々はここを「日本海最北の地」とした。新潟からホルムスクまで日本海に沿って走ってきたが、日本海の境界は別に線が引かれている訳でもないので、どこまでが日本海なのか、特定するのは難しい。

 日本国内では津軽半島最北端の龍飛崎と北海道最南端の白神岬を結ぶ線が境になっている。その線よりも西側が日本海になる。北海道とサハリン間では日本最北端の宗谷岬とサハリン最南端のクリリオン岬を結ぶ線が境になっている。やはりこの線よりも西側が日本海になる。稚内港から乗ったフェリー「アインス宗谷」は日本海稚内港を出港し、宗谷海峡を越え、オホーツク海側のコルサコフ港に入港したが、難しいのは日本海の北端だ。 日本海の北端はタタール海峡間宮海峡)との境ということになるが、タタール海峡の南端がどこであるかを見極めるのが非常に難しい。そこで我々はホルムスクをタタール海峡の南端とし、ホルムスクからネベリスクに向かって見た初めての海を最北の日本海ということにした。

「ここが日本海の一番北!」と高揚した気分で狭い砂浜を歩き、その記念だとばかりに岸辺に浮かぶ日本海最北のコンブをむさぼり食った。地球をガブリとかみしめるような味がした。

 最北の日本海を見たあと、ホルムスク(真岡)に戻り、レーニン像の建つレーニン広場でバイクを止めた。ホルムスク市民のみなさんは目ざとく我らのバイクを見つけて集まってくる。ロシア語で質問されたが、「スパシーバ(ありがとう)」と「ハラショー(すばらしい)」、「ニェット(ノー)」ぐらいしかロシア語を知らないカソリ、「これからフェリーでワニノに渡り、ハバロフスクに向かっていきます」と身振り手振りを交えていうと、みなさんは「わかった、わかった」という顔をした。

レーニン広場では広場前のショッピングセンターを見てまわり、観客席のついたサッカー場をぐるりとひとまわりしてみた。レーニン広場に戻ると、イギリスの高級車ジャガーでシベリアを横断してきたロシア人チームがやってきた。モスクワを出発し、ウラル山脈を越えてシベリアを横断。ワニノからフェリーでホルムスクに渡り、これからユジノサハリンスクに向かうという。ゴールはウラジオストク。彼らは「モスクワ→ウラジオストク」をテレビ番組で流しているとのことで、我々も写真をとられ、インタビューに答えて取材に協力した。

 レーニン広場からはホルムスクの中心街を走り、ホルムスク港を見下ろす高台へ。そこにある真岡神社跡を歩く。石段はそっくりそのまま残り、手水鉢や「馬頭観世音」と彫り刻まれた石柱も残っている。真岡神社跡は今では「サハリン船舶会社」の敷地になっている。手入れの行き届いた会社内のきれいな庭園を歩いたが、北海道遺産にも指定されている「螺湾ブキ」のような大きなフキが見られた。

「ホルムスク探訪」を終えてホルムスク駅に戻ってきた。するとロシア本土のワニノ港に向かうフェリーの出港はさらに遅れ、夜になるという。時刻表などあってなきがごとしなので、出港時間はあてにならないと覚悟していたが、ここは日本とはあまりにも違う世界。最初は午後2時頃の出港だと聞いていたが、それが夕方になり夜になった。ほんとうに夜に出るのか、それも疑問だ。

 我々は急きょ、フェリー埠頭近くの「ホルムスクホテル」に入った。ホテルの駐車場にバイクを止めると、歩いて船会社に行く。そこでは10枚近い書類に1人づつサインをする。大仕事だ。それを終えるとホルムスク駅のカフェで夕食。オランダ製ビールで乾杯。そのあとスープとライス&チキンの夕食を食べた。

 ホルムスク駅からは夕暮れのホルムスク港を見ようと、目抜き通りのソビエツカヤ通りを歩く。大通りに面してホルムスク郵便局がある。ここが稚内の「九人の乙女の碑」の舞台になった真岡郵便電信局跡。昭和20年(1945年)8月20日、真岡は旧ソ連軍の猛攻を受けた。戦火の中、最後まで真岡郵便電信局を死守した9人の女性電話交換嬢はもはやこれまでと、「みなさん、これが最後です。さようなら…」の言葉を残し、青酸カリを飲んで集団自決した。我々日本人が絶対に忘れてはいけないのは、旧ソ連軍は8月15日の終戦以降、日本領樺太に攻めてきたということだ。これが昔も今も変らないロシアの体質。戦後日本の最大の幸運は北海道が旧ソ連に占領されなかったことだ。もし北海道が旧ソ連に占領されていたら、歯舞、色丹、国後、択捉の北方四島と同じように、戦後60余年たっても日本に返還されることは絶対になかったといっていい。

 ホルムスク港を一望する港公園まで行く。そこで明かりの灯りはじめた港を見ていると、日本人グループのライダーがやってきたことを聞きつけて、ホンダのアフリカツインに乗ったロシア人ライダーのオレッグが来てくれた。しばし英語を交えてのバイク談義を楽しんだ。

「ホルムスクホテル」に戻ると、ワニノ行きのフェリーの出港はさらに遅れ、夜明けになるという。そこでホテルでひと眠りして、真夜中の2時起床ということになった。ホルムスクからワニノにフェリーで渡るのは大変なこと。青森から津軽海峡フェリーで函館に渡るようなわけにはいかないのだ。

「ホルムスクホテル」ではさんざん蚊にやられ、何度も目がさめてしまった。真夜中の午前2時、起床。蚊にやられたので何とも目覚めが悪い。それでも「さー、これでタタール海峡間宮海峡)を渡ってワニノだ!」と思うと、元気が湧き出てくる。

 ホテルの駐車場から我々は各自のバイクに乗って走り出す。道路をはさんで反対側のフェリー埠頭へ。車両乗場の近くにバイクを止めた。あとはひたすら夜明けを待つ。耐えがたいほどの長い時間。ついに夜が明けた。だが出港はさらに遅れ、朝の7時頃になるという。もうガックリ…。

 明るくなったところで我々の乗るフェリー「サハリン7」を見てまわった。6時過ぎになると積み込まれていた大型トラックが「サハリン7」から降りてくる。しかしスムーズにはいかない。何度もハンドルを切り返し、やっとという感じでの降り方。日本のフェリーとは大違い。つづいて貨物列車が降りてくる。この「ホルムスク-ワニノ」間のフェリーは鉄道連絡船。大陸は広軌でサハリンは狭軌とゲージが違うので、ホルムスク港には台車交換場がある。船内の線路は広軌だ。

 ホルムスク港の出港はまたまた遅れ、8時になるという。もうこうなると、なるようになれという気分。大型トラック、つづいて貨物列車が乗船し、最後に我々のバイクが乗船した。各自持参のロープでバイクを固定し、ついにバイクを乗せた。我々は「サハリン7」の乗客用乗船口にまわり、こうして船上の人となる。「サハリン7」の出港は午前9時。最初聞いていたのは前日の午後2時なので、じつに19時間遅れてのホルムスク出港となった。

「サハリン7」はホルムスク港を出港。ホルムスク港が遠ざかり、港外に出ていく。ロシア製カンビールを持って甲板に立ちつくし、タタール海峡間宮海峡)の海上からホルムスクの港と町並みを眺めた。遠ざかっていくホルムスクを見ていると、1991年の「サハリン周遊」が思い出されてならなかった。そのときは稚内港でロシア船の「ユーリー・トリフォノフ号」(4600トン)にバイクともども乗り込んだ。最初はコルサコフに向かう予定だったが、稚内港を出ると、急きょ、行き先がホルムスクに変更された。ということでホルムスクに上陸し、ユジノサハリンスクに向かったのだ。

 ユジノサハリンスクを拠点にしてサハリン南部をまわり、最後にまたホルムスクに戻ってきた。そして「ユーリー・トリフォノフ号」に乗船した。それは1991年8月19日のことで、出港したのは15時15分だった。「ユーリー・トリフォノフ号」がホルムスク港の港外に出たとき、船内は騒然とする。ソ連にクーデターが発生し、ゴルバチョフ大統領がクリミアで軟禁されたというニュースが飛び込んできたからだ。緊迫した時間が過ぎていく。船はこのまま稚内に向かうのか、それともホルムスクに引き返すのか…。まさに手に汗を握るような時間の経過だった。

 何ともラッキーなことに、「ユーリー・トリフォノフ号」はホルムスク港を出たということで、そのまま日本海を南下し、稚内港に向かうことになった。速力をガクンと落として海上に漂っていた船は再度、速力を上げた。もし1991年8月19日のクーデターがもう30分、早く発生していたら、船はホルムスク港を出港することなく、そのまま港に停泊しつづけたことだろう。そのときはいつ稚内に帰れたことやら…。クーデターは結局、失敗に終った。だが世界最大の連邦国家ソ連邦は8月19日を機に、一気に崩壊への坂道をかけ下っていく。ぼくはサハリンのホルムスクで、世界の現代史の大きな一場面に出くわしたのだ。

「サハリン7」はロシア本土とサハリンの間のタタール海峡間宮海峡)に出ていく。ホルムスクの町並みがいつまでも見えている。「サハリン7」はすぐにタタール海峡間宮海峡)を横切るのではなく、サハリンの沖合いを北上。ホルムスクを出発して1時間ほどすると、「ワニノ→ホルムスク」のフェリーとすれ違った。

 ぼくは船の甲板から海を見るのが好きだ。ロシア製ビール「バルチカ7」のロングカンを飲みながら、タタール海峡間宮海峡)の青い海と青く霞むサハリンの山並みを眺めつづけた。サハリンの西海岸にはホルムスクの北にチェーホフ(野田)、トマリ(泊居)、イリインスク(久春内)といった町々が点在しているが、「サハリン7」はその沖合いを通っていく。1991年の「サハリン周遊」ではホルムスクからチェーホフへとタタール海峡間宮海峡)沿いの道を走った。バイクに乗りながら、何度、「間宮海峡を越えたい!」と思ったことか。あれから20年、今、その夢をかなえている。

「サハリン7」はサハリン西岸の沖を北上し、イリンスク(久春内)沖を過ぎたあたりで進路を北から北西に変え、タタール海峡間宮海峡)を横断する。ロシア本土とサハリンの間のタタール海峡間宮海峡)は長さ660キロ。一番幅の狭いところではわずか7・3キロでしかない。ところでタタール海峡だが、なぜ「タタール」なのか、よくわからない。タタールといえばウラル山脈よりも西のタタール人の国、ロシアのタタールスタン共和国を連想する。首都はカザン。きれいな町だ。そのタタールタタール海峡がどういう関係なのか。かつてアジア系のタタール人はユーラシア大陸の広範な地域にすんでいた。その東に住んでいたのが韃靼(だったん)人。韃靼海峡がタタール海峡になったという説もあるらしい。

 タタール海峡は日本では間宮海峡といわれている。幕府の命を受けて樺太を探検した間宮林蔵が文化5年(1808年)に発見し、シーボルトがヨーロッパに伝えたことによるものだ。宗谷岬には間宮林蔵の像が、宗谷岬近くには間宮林蔵の渡樺の地碑が建っている。間宮林蔵の探検によってロシア本土とサハリンの間の海峡が発見され、サハリンが島であることがわかったのだが、この地方に住む北方民族はそのはるか以前から海峡の存在を知っていたし、サハリンが島であることも知っていた。

「サハリン7」がサハリン沖を離れ、海峡横断ルートに入ったところで船内のレストランで黒パンとスープ、サラダの昼食。そのあとは我ら何人かのメンバーとの飲み会を開始。ビールとウオッカを飲み、地図をテーブルに置いてさんざん日本海を語り合った。そして船室で爆睡だ。

 目をさますとすぐに甲板に上がった。「サハリン7」の進行方向の水平線上には、かすかにロシア本土が見えている。やがて海岸線に沿って長く延びるシホテアリニ山脈のなだらかな山並みが見えてくる。山々がそのまま海に落ち込んでいるので海岸線に道路はなく、集落もない。 タタール海峡の夕暮れ。水平線上のワニノの町明かりが見えてくる。「サハリン7」は町明かりに向かって突き進み、ホルムスク港を出てから10時間後の19時にワニノ港に到着した。

 ロシア本土に上陸すると港近くの「ワニノホテル」に泊まった。翌朝は夜明けとともに起き、ワニノの町を歩いた。

 ワニノはタタール海峡間宮海峡)のワニノ湾に面したロシア極東の港町で人口4万人。1874年にこの一帯の地図を作った探険家ワニノの名前に由来している。

 バム鉄道(バイカル・アムール鉄道)がワニノを通っている。バム鉄道はワニノの南15キロのソビエツカヤ・ガバニが終点になっている。「ワニノ探訪」の第一歩はワニノ駅。「ワニノホテル」の前がワニノ駅だ。ソビエツカヤ・ガバニに通じる道を渡り、跨線橋を渡って駅構内に入っていく。前日の「サハリン7」で一緒だった若者たちと再会。彼らは駅舎内でひと晩眠り、アムール川沿いの町、コムソモリスク・ナ・アムーレ行きの列車を待っていた。

 コムソモリスク・ナ・アムーレとワニノ間の鉄路が完成したのは1945年。この鉄道の完成によってワニノは急速に発展した。バム鉄道のワニノ駅は、シベリア鉄道終点のウラジオストク駅やその支線終点のナホトカ駅、バム鉄道終点のソビエツカヤ・ガバニ駅よりも東に位置し、ユーラシア大陸最東端の駅になっている。

 ところでバム鉄道(バイカル・アムール鉄道)だが、シベリア鉄道のタイシェット駅で分岐し、バイカル湖の北を通り、タタール海峡間宮海峡)のワニノからソビエツカヤ・ガバニに至る全長4324キロの鉄道。日本でいえば青森駅から鹿児島中央駅まで行って帰ってくるような距離。あらためて大陸の大きさを思い知らされる。ブラーツクのアルミやヤクート炭田の石炭などはバム鉄道でワニノに送られ、日本に輸出されている。

 ワニノ駅の待合室のベンチに座っていると、バム鉄道起点駅のタイシェットがなつかしく思い出されてならなかった。2002年の「ユーラシア横断」では、今回使用しているDR-Z-400Sでウラジオストクに上陸。ユーラシア大陸最西端のロカ岬を目指し、ハバロフスク、チタ、イルクーツクと通ってタイシェットに到着したのだ。

 タイシェットでは駅前ホテルに泊まった。ペリメニ(水餃子)とオリーブ入りサラダの夕食のあと、タイシェット駅に行った。ちょうどモスクワ発北京行きの12両編成の列車が到着したところだった。チタでシベリア鉄道と分れ、国境の満州里からハルビンを経由して北京まで行く列車。最後尾の1両はハルビン行きになっていた。

 駅前ホテルに戻ると、カフェでビールを飲んだ。そこではターニャとイラ、2人のロシア人女性と一緒になった。ぼくはターニャにすっかり気に入られたようで、手をつかまれ、スピーカーから流れてくる大音量の音楽に合わせて彼女と踊った。夜がふけてきたところで、ターニャに「ドスビダーニア(さよなら)」といって部屋に戻ろうとした。するとターニャは「まだ、帰っちゃダメよ」といって、ぼくをギュッと抱きしめ、豊満な胸をゴリゴリッと押しつけてくる。そして「ブチュッ」という感じでキスするのだ。まわりのギャラリーはやんやの喝采。ワニノ駅の待合室で、10年前のそんなシーンが蘇ってくる。それがぼくにとってのバム鉄道だ。

 さらにワニノの町を歩く。ワニノ駅前から真っ直ぐ行く道はバム鉄道の終点、ソビエツカヤ・ガバニに通じているが、灯台の立つ交差点を右に折れるとワニノの中心街。早朝の灯台はまだ明かりを投げかけていたが、いかにも港町ワニノを感じさせる光景。世界広しといえども交差点の灯台というのはそうあるものではない。ワニノの灯台から登っていく坂道の両側には高層住宅が建ち並んでいる。その1階は商店街。坂道を登りつめたところがロータリーの交差点で周囲は公園になっている。そこにワニノ市役所がある。

 1時間ほどワニノの町を歩き、「ワニノホテル」に戻ると朝食。クレープとオムレツを食べた。さー、アムール川を目指して出発だ!