賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

東アジア走破行(16)環日本海ツーリング(1)

「東アジア走破行」の第13弾目は、2011年の「道祖神」のバイクツアー、「賀曽利隆と走る!」第15弾目の「環日本海ツーリング」だ。

 我が愛車、スズキの400㏄バイク、DR-Z400Sを走らせて東京から新潟へ。新潟から日本海に沿って北上し、稚内まで行った。稚内からはサハリンに渡るのだ。

 稚内ではガソリンを満タンにした。サハリンのガソリンは質に問題アリとのことで、タンクには目一杯入れた。また入国時の放射能チェックは相当、厳しいということで、これでもか、これでもかというぐらいに高圧でDRを洗浄した。これで準備完了だ。

 稚内港前の「氷雪荘」に行く。

「氷雪荘」には「環日本海ツーリング」に参加するメンバーが次々にやってくる。総勢13名。その中には新保さんがいる。新保さんとは2002年の「ユーラシア横断」を皮切りに、2003年の「アラスカ縦断」、2004年の「南部アフリカ」、2004年-2005年の「サハラ縦断」、2005年の「韓国縦断」、2007年-2008年の「南米・アンデス縦断」、2009年の「チベット横断」を一緒に走っている。

 竹口さんとは「南部アフリカ」、「サハラ縦断」、「南米・アンデス縦断」、「チベット横断」、新谷さんとは「韓国縦断」、河守さんとは「チベット横断」を一緒に走っている。なつかしの篠塚さんとも再会。篠塚さんは2000年の「サハリン縦断」に参加したのだが、何と稚内出発当日、バイクのエンジンが突然かからなくなり、そのままバイクを置いてサハリンに渡ったという悲劇の主人公。「今回はリベンジですよ」といっている。紅一点の大堀さんは前年の道祖神ツアーでサハリンを走っている。

シルクロード横断」、「南米・アンデス縦断」を一緒に走った小林さんはひと足先にサハリンに渡り、我々とはコルサコフ港で合流することになっている。

 多士済々の「環日本海ツーリング」のみなさんと南稚内の「雑魚や」に行き、前夜祭の宴会開始。ここは稚内市役所の渡辺さんオススメの店。その日は日曜日にもかかわらず、渡辺さんのおかげで店を開けてくれた。「これが日本食の食べ納め!」とばかりに、我々はおおいに飲み、おおいに語りながら新鮮な北海の幸の数々を食べ尽くした。「氷雪荘」に戻ると、ちょうどうまい具合に花火大会が始まった。夏の夜空を彩る花火を見上げながら夢はサハリンへと飛んでいく。

 2012年8月8日6時30分、「氷雪荘」の朝食。これが最後の日本食ということで納豆、海苔、半熟卵…の食事をしっかりと味わって食べた。7時30分、「氷雪荘」を出発。道祖神の菊地さん、「環日本海ツーリング」の参加者のみなさんと一緒に稚内港・サハリン航路のフェリー埠頭へ。コルサコフ港に行くハートランドフェリーの「アインス宗谷」はすでにフェリー埠頭に接岸している。ターミナルビルには続々と乗船する人たちがやってくる。稚内市長をはじめとする稚内市のサハリン訪問団や猿払村の村長を団長とする学校の生徒たちが目を引く。

 我々はまずはバイクの出国手続き。ナンバープレートを国際ナンバーにつけ替える。稚内税関の職員がやってきて、1台1台のバイクのエンジンナンバーとフレームナンバーを確認し、「自動車一時輸出入申告書」に不備がないのを確認して書類にスタンプを押していく。今回はカルネを使わないので、この「自動車一時輸出入申告書」でもって、バイクの日本出国、日本入国をすることになる。

 税関での審査が終るとイミグレーションでの人間の出国手続き。こちらはじつに簡単で、パスポートにポンと「WAKKANAI」の出国印が押された。税関、イミグレーションでの手続きが終ると、バイクを走らせ、フェリーの車両甲板にのせる。フェリーが日本のハートランドフェリーなので、じつに手際よくバイクを1台づつ固定していく。

 ハートランドフェリーの「アインス宗谷」は定刻通り、午前10時、稚内港を出港。さすが日本のフェリー、1分と遅れることがない。これがどれだけすごいことか、後でよくわかることになる。「アインス宗谷」は2623トン。223名の乗客とトラックなら18台、乗用車なら45台を乗せられる。全長77メートル。速力は17ノット、時速約32キロ。船内のビールの自販機は税金がかからないので1本100円。甲板でサッポロの生を飲みながら、離れゆく稚内を眺めた。

 稚内港を出ると、ノシャップ岬から日本海へと続く海岸線がよく見える。礼文島利尻島も見える。目の向きを変えると、今度は日本最北端の宗谷岬からオホーツク海へと続く海岸線を一望。「アインス宗谷」はサハリンのコルサコフ港を目指して宗谷海峡を進んでいく。

 日本最北端の宗谷岬が見えなくなると、今度は進行方向の左手にサハリン最南端のクリリオン岬が見えてくる。宗谷岬からクリリオン岬まではわずか43キロでしかない。それほど近い日本とサハリンなのだが、時差は1時間ではなく2時間もある。

 日本時間の12時になったところで昼食。サハリン時間ではもう14時だ。道祖神の菊地さんのはからいなのだろう、昼食は日本食の弁当だ。食べ終わったところで、自販機の100円ビールを飲みながら甲板に立ち尽くし、サハリンの島影を眺めた。

「アインス宗谷」はアニワ湾に入り、日本時間の15時30分、コルサコフ港に到着。稚内からは5時間30分の航海。サハリン時間では17時30分になる(ここからの記述ははすべてサハリン時間にする)。

 コルサコフは日本時代の大泊。不凍港で戦前までは稚内港との間を稚泊航路の連絡船が行き来し、北海道と樺太を結ぶ大動脈になっていた。

 コルサコフ港に到着してもすぐには降りられない。これがロシア時間というもので、時間だけがどんどん過ぎていく。コルサコフ港に夕日が落ちる頃になってやっと下船開始。我々は愛車ともどもコルサコフ港の埠頭に降り立った。さんざん待たされたあとだけに、サハリンに上陸できてうれしい。

 コルサコフ港での入国手続きは延々と時間がかかった。じっと辛抱して待つしかない。我々の手続きは最後になったので、よけいに時間がかかった。辛抱したかいがあってまずはイミグレーションでの入国手続きが終了。つづいて税関での検査。ここで問題発生。メンバーの1人が放射能チェックでひっかかったのだ。まるで空襲警報のような音が検査場内に鳴りひびき、彼の持物全部が別室で調べられた。ガイガーカウンターで荷物ひとつづつを調べられたとのことだが、その結果、放射能源は何とバイクカバー。その数値は0・39マイクロシーベルト。それを聞いたとき、「0・39」ぐらいでこれだけ大騒ぎするのかと驚いた。

「環日本海ツーリング」の前には東北の太平洋沿岸を走った。爆発事故を起こした東電の福島第1原発の20キロ圏は立入禁止で国道6号は通行止になっていた。その迂回路として国道399号で阿武隈山地を北上。浪江町の津島から峠を越えて飯舘村の長泥に下った。この一帯は原発爆発事故の影響をモロに受けたところで、5月11日の時点で津島は20マイクロシーベルトを超え、長泥は10マイクロシーベルトを超えていた。それでも国道399号は通行止にはならず、普通に通行できたのだ。

 津島や長泥の放射線量はコルサコフの税関を大騒ぎさせた「0・39」とは桁違い。コルサコフの税関職員が10とか20という数値を知ったら、きっと腰を抜かさんばかりに驚いたことだろう。放射能チェックでひっかかった荷物は没収され、日本に送り返されることになった。サハリンでは処分できないのだという。たかだか「0・39」なのに…と思ったが。バイクの方は全車が放射能チェックにひっかかることもなく、無事に受け取れた。

 まずはサハリンの第1歩、港周辺を歩き、2、3軒の店をのぞいて見てまわる。店内を一目、見ただけで2000年の「サハリン縦断」のときよりも、はるかにモノが豊富になっているのがわかった。この10年余、サハリンは石油景気、天然ガス景気で湧いた。

 コルサコフ港には通訳兼ガイドの東さんが我々の到着を待ち構えてくれていた。我々よりも先にサハリンに渡り、サハリン南部をまわった小林さんがセローに乗ってやってきた。ワジムさんの運転するサポートカーもやってきた。

 コルサコフ港に到着してから3時間後の20時30分、州都のユジノサハリンスクに向けて出発。DR-Z400Sには「頼むぞ!」とひと声かけ、サポートカーについて夜道を走る。「コルサコフユジノサハリンスク」はサハリン一番の幹線だが、2000年の「サハリン縦断」のときと比べると、道幅は広くなり、交通量も格段に多くなっている。ユジノサハリンスクまでは43キロ。21時30分の到着だ。

 ユジノサハリンスクでの宿は「ベルカホテル」。かつてのサハリンでは想像もできないような快適なホテル。部屋に荷物を入れると、レストランで夕食だ。道祖神の菊地さんの発声で「乾杯!」。いやー、ビールがうまい。

 夕食はロシアの伝統的なスープ「サリャンカ」からはじまった。トマト風味のスープで上にサワークリームがのっている。中身は牛肉やベーコン、サラミ、野菜類。ロシア料理にはかならずついてる香辛料のオクロップ(フェンネル)の葉が特有の香りを漂わせる。つづいてビート(砂糖大根)のサラダ、そしてメインディッシュのステーキ。前夜の稚内での「魚三昧」の食事とはガラリと変わって「肉三昧」。これが宗谷海峡をはさんでの食文化の違いというもの。レストランでの夕食を終えると、有志で集まり、ウォッカパーティーになった。こうしてサハリンの夜は更けていった。

 翌朝は夜明けとともに起き、早朝のユジノサハリンスクを歩いた。霧がたちこめ8月とはいってもひんやりしている。目抜き通りを走る車の9割以上は日本車だ。以前のようなポンコツの中古車ではなく、新車、もしくは新車のような中古車も多く見られた。ボルガなどロシア製のオンボロ車はすっかり影をひそめていた。

 ユジノサハリンスクサハリン州の州都。日本時代の豊原だ。サハリン州はサハリン本島のほか千島列島などを管轄している。サハリン州の人口は54万人、そのうちユジノサハリンスクの人口は20万人。サハリンは南北に細長く、約950キロに達する。それに対して東西の幅は狭く、最大で約160キロ、最少では26キロでしかない。面積は7万6400平方キロで北海道の約9割ほどになる。

 ユジノサハリンスクの町並みは碁盤の目状で、日本時代につくられた町並みとそれほど変わりがない。「小札幌」といったところだ。そんなユジノサハリンスクの町並みを1時間ほどプラプラ歩き、「ベルカホテル」に戻った。

「ベルカホテル」で朝食を食べると、午前中はマイクロバスでの市内観光。まずは郊外のスキー場の展望台に登る。ここは昔の旭ヶ丘の展望台。ここからはユジノサハリンスクの市街地を一望する。ススヤ川流域に開けた碁盤の目状の町並みが、まるで地図を見ているかのようによくわかる。日本時代の樺太庁はこの地に豊原の町を造り、樺太統治の拠点にした。それが今のユジノサハリンスクの町になる。スキー場にはロープウエーが建設中で完成間近。我々はその試運転中のロープウエーに乗せてもらえた。

 展望台を下った山裾には戦勝記念碑がある。そこから小道を歩いたところが樺太神社跡。豊原駅(現ユジノサハリンスク駅)から東に延びる大通りは神社大通り(現コムニスチーチェスキー大通り)と呼ばれ、突き当たりに樺太神社があった。今でも山中に石段の跡などが残っている。樺太神社跡で手を合わせ、戦勝記念碑に戻るとコムニスチーチェスキー大通りを直進し、ユジノサハリンスク駅前でマイクロバスでの市内観光は終了。そこからはプラプラ歩いて「ユジノサハリンスク探訪」を開始した。

 まずはレーニン広場へ。ロシア本土では大半のレーニン像が倒されたのにもかかわらず、ユジノサハリンスクでは健在。見上げるような巨大なレーニン像がそのまま残っている。噴水のあるレーニン広場は市民の絶好の憩いの場になっている。

 次にユジノサハリンスク駅近くの自由市場を歩く。野菜売場、果物売場、水産物売場と見てまわったが、物は豊富で市場内には活気があふれている。目立つのは在サハリンの朝鮮人たち。とくに女性。彼女たちはサハリン経済を牽引しているかのような元気さだ。

 自由市場の様子は20年前とは大違い。1991年に来たときは、あまりの物不足でサハリンの人たちがかわいそうになるほどだった。自由市場には貧弱な野菜が並び、魚、肉はほとんどなく、木イチゴの実が目についた程度。当時、サハリンでは餓えが心配されていたほど。あのときの自由市場の光景が目に焼きついているので、物のあふれかえる2012年の自由市場は「サハリンは変った!」と実感させるものとなった。自由市場には大勢の買物客がやってくるので、その周辺には数多くの露店も出ている。そこでは細々としたものが売られているが、ロシア料理に欠かせない香辛料のオクロップが目についた。

 自由市場とその周辺の露店群を見てまわったところで昼食にする。「カフェメトロ」という店に入った。そこはセルフサービスの店。好きなものを取って食べるようになっている。黒パンとビート、ボルシチ、肉団子、マッシュポテトを食べた。

 昼食後は目抜き通りのコムニスチーチェスキー大通りを歩き、サハリン州政府の庁舎前を通り、「サハリン州郷土資料館」を見学する。純日本風の城郭を思わせるような建物。昭和13年(1938年)に建てられた樺太庁の郷土館をそのまま使っている。入口には2つの狛犬が並んでいる。旧樺太神社のものか。館内には北緯50度線上に置かれていた日本と旧ソ連国境の2つの標石が展示されている。それには「大日本帝国 境界」と彫り刻まれている。興味を引かれたのはニブヒ(ギリヤーク)族などの北方民族のコーナー。彼らの紋様は北海道遺産にも指定されているアイヌの紋様にそっくりだ。

サハリン州郷土資料館」の見学を終えると、さらにコムニスチーチェスキー大通りを歩き、コムサモーリスカヤ通りとの交差点に出る。このコムサモーリスカヤ通りを南に行けばサハリン上陸の地のコルサコフだ。

 交差点のすぐ近くにはロシア正教の教会がある。ロシア正教の教会というと日本でいえば東京・御茶ノ水ニコライ堂や函館のハリストス正教会がよく知られているが、ともに異国情緒を漂わせている。本家本元のロシア正教の教会を見て、「ここはもう異国の地だ!」と、改めて思い知らされた。ここを最後に「ユジノサハリンスク探訪」を終え、「ベルカホテル」に戻った。

 ホテルのレストランでみなさんと一緒に夕食。ちょっぴり豪華にシャンペンで乾杯。そのあとロシア産のワインを飲んだ。夕食はサラダにはじまる。それにはロシア料理には欠かせない香辛料のオクロップがのっている。次に炒飯。これにもオクロップがのっている。最後は水餃子のペリメニで、これにもオクロップがのっている。ロシア料理にオクロップは欠かせない。

 ところで餃子というと中華料理を連想するが、水餃子のペルメニはロシアの国民的料理といっていいほど一般的。シベリア経由の「ユーラシア横断」(2002年)では何度、食べたか知れない。日本人の大好きな焼餃子を食べた記憶はまったくなく、すべてが水餃子のペリメニだった。ちなみに中国でも餃子といえば水餃子と蒸餃子が主で焼餃子はそれほど食べられてはいない。それなのになぜ日本では焼餃子が主流になったのか、じつにおもしろいことだと思う。

 翌朝も夜明けとともに起き、1時間ほどユジノサハリンスクの町を歩き、「ベルカホテル」に戻った。そして朝食。道祖神の菊地さんは自由市場で買ったというキムチをみんなに出してくれた。それを試しに黒パンの上にのせて食べてみるとけっこういける。名づけて「キムチ黒パン」だ。

 9時、ユジノサハリンスクを出発し、ホルムスクに向かう。この道は1991年の「サハリン周遊」で往復したルート。そのときに比べると格段に道がよくなり、交通量も多くなっている。ホルムスクまでの標識もしっかりしている。途中には食事もできる「カフェ」もできている。

 ユジノサハリンスクからホルムスクまでは100キロ。その手前でホルムスク峠を越える。切通しになった2車線の新道がズバッと切り裂くようにして峠を越えているが、ここでは旧道で昔の峠に登った。そこにはロシアの戦勝記念碑が建っている。

 このホルムスク峠は日本時代の熊笹峠。熊笹峠の名前どおり、峠は一面、クマザサで覆われている。見晴らしのよい峠で日本海がはるか遠くに見渡せる。

 熊笹峠は日本軍とソ連軍の激戦の地。昭和20年8月15日の終戦後、ソ連軍は真岡(現ホルムスク)を攻撃し、真岡に上陸した。そのソ連軍に対し、熊笹峠に陣地を構えていた日本軍は激しく高射砲を浴びせかけた。そのため上陸したソ連軍は熊笹峠の日本軍を徹底的に攻撃し、日本兵の死体が要塞内で折り重なったほどだという。

 このときのソ連軍の真岡上陸で、当時の真岡郵便電信局の9人の電話交換嬢は、「みなさん、これが最後です。さようなら…」と、最後の言葉を残して集団自決した。稚内港を見下ろす稚内公園には樺太に眠る同胞の慰霊碑の「氷雪の門」があるが、その隣の「九人の乙女の碑」は真岡郵便電信局の9人の電話交換嬢の慰霊碑だ。

 ホルムスク峠から日本海に下り、ホルムスクの町に入っていく。ここから我々は連絡船に乗って間宮海峡タタール海峡)を渡るのだ。