賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

東アジア走破行(8)旧満州走破行

「東アジア走破行」の第6弾目は2004年9月21日~10月4日の「旧満州走破行」だ。その一番の感動的なシーンは中国最北端の地に到着した時だ。

「おー、北極だ。おい、尚、ついに北極までやってきぞ!」

 中国・東北部、黒龍江省の中心都市、ハルビンを出発してから6日目のこと。軽騎鈴木製のQS110で1706キロを走り、中国最北端の地までやってきた。

 カソリ親子、感動を爆発させ、「神州北極」の碑の前で思いっきり万歳をした。

神州」というのは「中国」のこと。中国では国の最北端を「北極」といっている。目の前を黒龍江アムール川)が流れている。対岸はロシアになる。中露(中国・ロシア)国境を悠々と流れる大河、黒龍江はまさに大陸を実感させる。

 中国最北端の地を存分に味わったあとは、「北極村」を歩く。ほんとうの名前は漠河村なのだが、それを「北極村」といっている。「北極旅飯店(旅館&食堂)」で黒龍江の魚料理の昼食を食べ、「中国最北之家」に行き、中国最北のダートも走った。

 中国最北端の地に立ち、意気揚々とした気分で、中国最北の町、漠河に戻った。その夜は満月。仲秋の名月にはつきものの月餅を食べ、鹿の焼肉や揚げた川エビを肴にビールを飲んだが、なにしろ「北極」に立ったあとなので腹わたにしみるような味わい。何度も「北極」に乾杯した。

 漠河から内蒙古自治区へ。

 漠河出発の朝は気温が氷点下10度まで下がった。このあたりは北緯50度をはるかに超えている。サハリンの最北端とほぼ同じくらいの緯度になるのだが、予想したよりもはるかに寒かった。

 大興安嶺山脈の峠に向かっていくと、小雪がチラチラと舞っている。峠道の日陰のコーナーにはうっすらと氷が張っている。ツルッと後輪が流れ、ヒヤッとした。思わずバックミラーで後ろを走る尚に目をやったが、無事にコーナーをクリアした息子の姿をみてひと安心。このあたりが親だなあ…。

 さらに峠に向かって走っていくと、尚は「ピーピー」クラクションを鳴らして追ってくる。バイクを止めると、「お父さん、もうすこし止まってよ」と、ブスッとした口調でいう。ぼくとしては内蒙古自治区との境の峠まで、一気に走ってしまおうと思っていたのだが…。

「そうか、わるかったな」

 それにしても寒い。ぶ厚い冬用のグローブをしていても、指先は寒さのせいでジンジン痛んでくる。

 黒龍江省内蒙古自治区の峠を越え、峠下の町に着くと、一目散に食堂に駆け込んだ。 予想をはるかに超えた寒さに徹底的に痛めつけられたカソリ親子、2人してオンドルの壁に手を当て、背中を当てて体を暖めるのだった。

 キャクダチから根河へ。その間では大興安嶺山脈の雪の峠を越える。このあたりでは9月中旬には初雪が降る。真冬になれば氷点下30度から40度ぐらいまで下がる酷寒の地。日本出発がもう何日か遅れていたら、大興安嶺山脈の峠は越えられなかったかもしれない。さすが、「強運のカソリ」、ギリギリのタイミングで大興安嶺山脈の難関を突破した。

 根河からハイラルに向かっていくと、大興安嶺山脈の山並みは遠ざかる。風景は森林から草原へと劇的に変わる。草原にはポツン、ポツンと牧畜民の蒙古族のパオ(テント)が見られた。

 そんな草原地帯を黒龍江の上流のハイラル川が流れている。上流とはいっても川幅は広く、すでに大河の風格があふれている。

 大興安嶺山脈を水源とするハイラル川は中露国境を流れるアルグニ川となり、ロシアから流れてくるシルカ川と合流して黒龍江になる。最後は間宮海峡タタール海峡)に流れ出るが、大興安嶺山脈から間宮海峡まで全長4353キロ。黒龍江は世界でも有数の大河だ。

 ハイラルから満州里に向かう。やっと猛烈な寒さから開放された。一面の大草原。羊や馬の群れを見る。地平線に向かって一直線に延びる道を走りつづける。風景がデッカイ!

 満州里に近づいたところで砂丘を越えた。モンゴルのゴビ砂漠から延びる砂丘だ。バイクを道端に止め、砂丘のてっぺんに登った。この砂丘こそ、アフリカ大陸からユーラシア大陸へと延びる大砂漠地帯の最東端になる。

「すごいものを見た!」

 という気分に浸った。

 アフリカ大陸の大西洋から紅海まで東西5000キロのサハラ砂漠は紅海を越え、アラビア半島の砂漠からイラン、パキスタンの砂漠へとつづく。さらにカラコルム山脈を越え、タクラマカン砂漠からゴビ砂漠へとつづいている。その東端の砂丘に、「今、立っている!」と思うと、胸の中が焼けるように熱くなってくる。

「砂漠大好き人間」のカソリ、今までに世界の大半の砂漠をバイクで走破してきた。これからも世界の砂漠をもっと走りまわりたいと思っているので、砂丘のてっぺんでモンゴルの方向に目をやりながら、はるか遠くのサハラ砂漠に想いを馳せるのだった。

 満州里に到着すると、町を走り抜けて国境へ。中国側の漢字で「中華人民共和国」、ロシア側のロシア語で「ロシア」と書かれたタワーが鉄路をまたいでいる。その下を木材を満載にした貨物列車がロシア側から中国側へと通り過ぎていく。

 ハルビンからチチハルハイラルと経由し、満州里に至るこの鉄道は、ロシア側に入ると、チタでシベリア鉄道の本線に接続している。目の前の鉄路がイルクーツクからノボシビルスクと通り、欧亜を分けるウラル山脈を越え、モスクワからヨーロッパ各地に通じていると思うと、このまま国境を越えて「ユーラシア大陸横断」をしてみたいという衝動にかられた。

 中露国境には平原を切り裂くように地平線のかなたまで、両国を分ける鉄条網のフェンスが張りめぐらされている。国と国の利害がぶつかり合う国境の厳しさを見せつけるような光景だ。しかし国境というのはその向こうの世界への強烈なあこがれを抱かせる場所でもある。国境には異常なほどの執念を燃やすカソリ、満州里の中露(中国・ロシア)国境に立って大いに満足するのだった。

 国境を立ったあとは、満州里近郊の草原地帯にある蒙古族の「パオ・レストラン」で羊肉三昧の昼食。「サンバイノ(こんにちは)」と蒙古語であいさつすると、従業員のみなさんはニコッと笑う。思わずモンゴルで出会ったモンゴル人たちの笑顔を思い出した。国境という一本の線によって中国とモンゴルに分けられたモンゴル人だが、その笑顔は共通のものだ。

 満州里からハルビンに戻ると、中国最東端の地を目指す。ジャムスを通り、同江へ。

 中露国境を流れる黒龍江に、中国・東北地方最大の川、松花江が合流する地点の「三江口」はすごかった。川幅は3、4キロはあるだろう。対岸のロシアが霞んでいた。ちなみに「三江」というのは、黒龍江松花江、ウスリー江の中国東北地方北部の三大河川のことである。

 ハルビンから915キロ走って中国最東端の町、撫遠に到着。中露国境を流れる黒龍江の河畔には「東極撫遠」の碑が建っている。「北極」と同じように、最東端は「東極」になる。

 だが、ほんとうの中国最東端の地はさらに東になる。撫遠から38キロ走ったところで、中国の道は尽きる。目の前を中露国境のウスリー江が流れている。対岸はロシア。そこから黒龍江とウスリー江の合流地点まで4キロほど歩き、中国最東端の地に立った。

「北極」、「東極」という「二大極点」に立つと、中国大陸をもっとバイクで走りたくなってくる。「南極」、「西極」にも立ってみたくなる。「中国・東極」の地でぼくは「また、次だな!」と、そう自分にいい聞かせた。これが旅のよさ。また新たな世界が広がった。

 10月16日、ハルビンに戻ってきた。全行程6216キロ。1日で一番走ったのは黒河から塔河までの494キロ。なんとそのうち465キロがダート。ラフな区間は穴ぼこだらけ。雨にぬかった区間はドロドロネチネチ。そんなロングダートも走り抜いたので、「よくやったな!」

 と、尚の肩をポンとたたいてあげた。

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(詳しくは当サイト『賀曽利隆オンザロード』の連載「旧満州走破行2004」をご覧ください)