『極限の旅』(山と渓谷社、1973年)その2
日本郵船のカラチ代理店に問い合わせると、長良丸の入港は予定よりもだいぶ遅れ、九月上旬になるという。ガッカリしたが、そうとわかればカラチなどにいることはできない。私にとって、都市ほど無味乾燥なところはないからだ。さっそく地面いっぱいに地図を広げ、あれこれとプランを練る。
だが、その日の午後突然不幸がやってきた。激しい下痢に襲われたのである。痛みはあまりないのだが、すこしでも水を飲んだり、食べたりすると三十分とはもたない。五日、十日と過ぎてもちっともよくならず、結局二十九日間続いた。その間の毎日は、たまらなく苦しい日々であった。
バスのターミナル近くにたむろしている闇屋を相手に、ドルをルピーに交換すると、私はカラチを離れた。まずは、タール砂漠が見えるところに行くことにした。
バスは、スーパー・ハイウェイを一〇〇キロ以上のスピードで突っ走る。かさかさに乾いた荒涼とした原野が矢のように飛び去って行く。
終点のミルプールカスという町に着いたのは真夜中。夜が明けると、町の人をつかまえては、「あのーすみませんがどこに行ったらタール砂漠を見ることができるでしょうか?」と聞いてまわった。私に聞かれた人たちは、なに馬鹿なことをいってるんだろうと思ったに違いない。しかし、それでも皆、ああだこうだと、熱心に教えてくれる。
キプロという村でバスを降り、一本道を歩いた。日ざしが強い。綿花畑の道を歩いていると、ありがたいことに、自転車に乗った若い人が後ろに乗せてくれた。
インダス川から引いた一番東の運河を越えると、景色はいっぺんに変わり、緑はみるみるうちにうすれていく。正面には大きな砂丘があり、その麓にひっそりと部落があった。風紋の美しい砂丘の斜面をかけ登り、一番高いところに上った。ゆるやかに波打つ砂丘がはてしなく続き、地を這うような背の低い木々が、ぽつんぽつんと生えていた。
私の今回の旅は砂漠が中心であった。このタール砂漠にはじまり、バルチスタン砂漠、西アジアの砂漠、アラビア砂漠、スーダンの砂漠、サハラ砂漠と……。アメリカに渡ってからも、ブラックロック砂漠、グレートソルトレーク砂漠、モハーベ砂漠、ヒラ砂漠、ユマ砂漠と、砂漠ばかりを追った。
サハラ砂漠のあのとてつもない大きさ、すさまじい勢いで地を這っていく砂の流れ。厳粛な儀式を思わせる日の出、日没。火のように熱く焼けた砂の上を歩き続けた日々、そんなサハラでの思い出がたまらない。
すべてのものを拒み、あいまいさを絶対に許さない厳しさ、気温の日較差が四十度にもなろうかという砂漠特有の厳しい自然風土に、私は強烈にひかれるものがある。