台湾往復縦断2011(29)
台湾山脈山麓の玉井から国道84号で烏山頭ダムへ。その近くにある「八田與一記念公園」に行く。
公園に通じる「八田路」は、日本時代の日本人水利技術者、八田與一の名前をとったもの。海外で日本人の名前がついた通りといったらほとんどないだけに、これは貴重だ。
「八田與一記念公園」には八田の住んでいた家が復元され、記念館には八田に関する資料が展示されている。
明治19年(1886年)、石川県河北郡花園村(現在の金沢市今町)に生まれた八田は東京帝国大学を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技手として就職した。当初、衛生事業に従事し、嘉義市・台南市・高雄市など各都市の上下水道の整備を担当した。その後、発電・灌漑事業の部門に移った。
八田は28歳の若さで着工中の桃園の大規模な灌漑水利工事を一任され、成功させて高い評価を受けることになる。
大正7年(1918年)、八田は台湾南部の嘉南平野(嘉義から台南にかけての大平野)の調査を行った。ここは台湾の中でも特に広い面積を持つ平野だが、灌漑設備が不十分なために、15万ヘクタールもの田畑は常に旱魃の危険にさらされていた。
そこで烏山頭ダムを計画、そのダムに阿里山を源とする曽文渓の流れを引き込む全長3078メートルの隧道も合わせて計画された。当時としては世紀の大土木事業だ。
大正9年(1920年)に工事は着工され、昭和5年(1930年)、烏山頭ダムは完成した。その10年間というもの、八田は寝食を忘れてダム工事の陣頭指揮をとった。
烏山頭ダムの完成によって嘉南平野には網の目状の水路が張りめぐらされ、この地は台湾有数の穀倉地帯になった。
台湾の人たちは今でも「八田與一」を名を忘れることなく、今年(2011年)の5月8日、「八田與一記念公園」を開園させた。5月8日は八田の命日だ。
「八田與一記念公園」の案内板の中国語、日本語の説明は「台湾を愛した外国人、八田與一技師を偲ぶため、2009年5月8日、馬英九総統は『八田與一記念公園』の造営を宣言しました」で始まるが、その最後は次のような一文で締めくくられている。
「八田技師への感謝の念を忘れず、その心に触れ、この地に根付いた『国境を越えた愛』に触れていただきたいと心から願っています」(交通部観光局)
このように八田與一は今でも多くの台湾人に愛され、尊敬されている。まさに日台の架け橋になった人物といっていい。
烏山頭ダムの入口
「八田路」を行く
「八田與一記念公園」を歩く
「八田與一記念公園」に舞う鯉のぼり
7894、復元された八田與一の住居
緑豊かな「八田與一記念公園」の園内