台湾往復縦断2011(23)
「グランドホテル」を出発。台南の中心街を走り抜け、赤嵌楼(せきかんろう)へ。
台湾最古の建築物の赤嵌楼は、もともとは台湾南部を支配したオランダ人によって1653年に建てられた城。当時はプロデンシャ城(紅毛楼)と呼ばれ、植民地支配の中心になっていた。
1661年に鄭成功がオランダ軍を撃退した後、ここは「承天府」という名に変わり、台湾の政治の中心となった。
その後、1862年の大地震で建物は全壊したが、1879年には「文昌閣」、「海神廟」が赤嵌楼の基台の上に建てられた。ということで現存する建物はプロデンシャ城や承天府の時代のものではないという。
赤嵌楼前の庭園には「鄭成功義和団」像が建っている。台湾の英雄、鄭成功(1624年~1662年)は、後の中国の歴史にも大きな影響を与える結社、義和団の創始者でもある。
鄭成功の父親は福建省泉州の人。長崎の平戸で商売をしているときに地元、平戸藩士の娘をめとり、2子をもうけた。そのうちの長男が鄭成功で母親は日本人なのだ。
鄭成功は7歳のときに初めて祖国に渡り、成長してから文武両道を極めると、風前の灯火の明朝を護るために清朝軍と戦った。
その功績で1658年、34歳のときに延平郡王になった。
翌年、金陵(南京)を攻めたが清軍に大敗。すぐさま台湾の攻略を計画。1661年、2万5000兵と1200隻の軍船という大軍をひきいてオランダの拠点、台南のここプロビデンシャ城とゼーランディア城を攻撃し、陥落させた。
オランダ勢を追放した鄭成功は、中国の福建、広東両省から台湾への積極的な移住をすすめ、富国強兵に努め、台湾を拠点にして大陸への反攻を目指した。
清を滅亡させ明を復興させるという「滅清復明」の大志を貫き通したが、その翌年、惜しくも病死。一代の風雲児は39歳の若さでその生涯を終えた。
この年、明は完全に滅び去った。
さて、赤嵌楼を見学する。今は資料館になっているが、館内には鄭成功のブロンズ像。それには「民族英雄」と記されている。中国船の模型も展示されている。「四海龍王」の絵に目がいく。龍は台湾の守護神。つづいて学問所の「文昌閣」を見学した。
赤嵌楼で驚かされてしまうのは続々とやってく中国人観光客。台鈴の李さんは「みんな、みんな大陸人!」といっている。
今、台湾の観光地はどこも中国人観光客であふれかえっている。多くの中国人観光客の手にはニコンやキャノンの高級一眼レフ。すごい中国人パワー、まさに「チャイナ・パワー!」だ。
台南の「グランドホテル」を出発
台南の中心街を行く
赤嵌楼に到着
赤嵌楼は台湾最古の建築物
赤嵌楼を見学する
続々とやってくる中国人観光客
赤嵌楼の鄭成功像
赤嵌楼の「四海龍王」の絵
学問所の「文昌閣」を見学する