賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

『世界を駆けるゾ! 40代編・下巻

第1章 目指せ、エアーズロック

道祖神」の菊地優さんとの出会い

 20歳のときに250・バイクのスズキTC250で「アフリカ一周」して以来、20代、30代と単独行のバイクツーリングを繰り返してきたぼくだったが、40代以降になって大きく変わったのはバイクツアーで海外ツーリングをするようになったことである。

 東京・目黒の「・道祖神」はバイクツアーに力を入れている旅行社だが、それを担当している菊地優さんとは20年来の友人だ。菊地さんはぼくの書いた一番最初の本『アフリカよ』(浪漫刊)を高校生のときに読んでくれた。そのあとすぐに電話をくれ、東京・秋葉原駅構内の喫茶店「メトロ」で、まだ少年の面影をたっぷり残す菊地さんに会った。友人の窪田誠さんが一緒だった。今から25年前のことである。

 1杯のコーヒーでずいぶん長い時間をかけ、ぼくは夢中になって菊地さんにアフリカの話をした。ぼくの体験したアフリカのすべて伝えたかったのだ。そうしたくなるほどの、あふれんばかりの情熱を菊地は持っていた。

 それから2年後に、菊地さんは窪田さんと一緒にアフリカに旅立っていった。19歳のときのことだった。

 横浜港から船でナホトカに渡り、列車でシベリアを横断し、ヨーロッパをヒッチハイクした。スペインからジブラルタル海峡を越えてモロッコに渡り、アルジェリアのアルジェからホガール・ルートでサハラ砂漠を縦断しようとした。だがうまくいかずヨーロッパに戻り、今度はギリシャからエジプトに渡った。カイロからナイル川沿いに南下してスーダンに入り、首都カルツームからは白ナイル沿いに南部スーダンのジュバまで行き、そこからケニアのナイロビへ。

 そこで西アフリカからアメリカに向かうという窪田さんと別れ、菊地さんはイスラエルのテルアビブ経由でトルコのイスタンブールに飛んだ。イスタンブールから陸路、西アジアを横断した。インドからネパールへ、最後はタイ。そしてバンコクから日本に帰ってきた。1年間の旅。菊地さんは、20歳になっていた。

 帰国してからまもなく、菊地さんは2度目の旅に出た。日本からデンマークコペンハーゲンへ。デンマーク人の友人、チョービンの家でしばらく居候する。菊地さんは前回の旅でアフガニスタンのバーミアンで山賊にみぐるみを剥がれ、一文無しになってしまった。そんなときに同じく西アジアを旅していたチョービンに助けられ、彼にお金を借りて日本に帰ってきた。その後、チョービンは日本にやってきて、菊地さんの家でしばらく居候していったという。なんともいい話ではないか。

 チョービンと一緒にヨーロッパ、北アフリカをまわった菊地さんは、彼と別れ、アメリカのニューヨークに飛ぶ。そこで友人の窪田さんと再会。バイトして資金を稼ぐと、窪田さんと一緒に北米をまわった。最後はサンフランシスコ。そこから日本に帰ってきた。1年間の旅。菊地さんは、21歳になっていた。

 帰国すると、将来のことを考えたのだろう、菊地さんは旅行専門学校に入学した。そのときに道祖神をつくった熊沢房弘さんに出会う。「学校にいたって、なんにも覚えられないよ」という熊沢さんの一言で学校を辞め、道祖神で熊沢さんの片腕として仕事するようになったのだ。

 菊地さんは26歳のときに結婚し、道祖神から長期休暇をもらい、奥さんと3年あまりの「世界一周」の旅をした。3年間の長期休暇など、前代未聞の話だ。このようにドラマチックな旅人生を送ってきた菊地さんは、今までに世界の137ヵ国を旅している。

 そんな菊地優さんが「カソリと走ろう!」シリーズのバイクツアーを企画し、ぼくがのった訳だが、その第1弾が「目指せ、エアーズロック!」なのである。前書『世界を駆けるゾ! 40代編上巻』で詳しく書いた「インドシナ一周」を終えた直後の、1993年におこなわれた。7月5日から11日間のバイクツアーだった。

我ら「豪州軍団」、総勢18名

「目指せ、エアーズロック!」のメンバーは、オーストラリア人スタッフを含め、総勢で18人。「豪州軍団」を結成し、男性陣はスズキDR350、女性陣はヤマハ・セローでオーストラリア東海岸ブリスベーンを出発。大陸中央部にそそりたつ世界最大の一枚、エアーズロックを目指した。

 ブリスベーンから国道54号を西へ。いかにも大陸らしい平原の中の道を突っ走っていくと、前方になだらかな山並みが見えてくる。グレート・ディバイディング・レインジだ。日本語でいうと大分水嶺山脈。大陸の東岸(太平洋岸)に並行して南北に走る全長3000キロ以上の大山脈。幅も160キロ~320キロと広い。ただ、ヒマラヤやアンデスのような険しい山並みではなく、全体に高原状でなだらか。最高峰のクシオスコ山も標高2230メートルと、2000メートル峰でしかない。

 大分水嶺山脈の峠道を登っていく。ユーカリの木が多くなる。日本のタイトなコーナーが連続するような峠道とは違い、いかにも大陸的とでもいおうか、ゆるやかなカーブの連続する峠道。峠の展望台に立つと、茫洋と広がる大平原を見下ろす。北海道の狩勝峠から見下ろす十勝の平原に似た風景だが、さすが大陸、桁が違う。

 大分水嶺山脈の山並みを越えると、もう前方に山影はない。大平原が延々とつづく。天と地と、世界をまっぷたつに分ける地平線を目指し、DR350のアクセル全開でただひたすらに走りつづける。

 夕日が西の空を真っ赤に染めるころ、ブリスベーンから280キロのチンチラの町に着く。キャラバンパーク(キャンプ場)でのキャンプ。こうして我ら「豪州軍団」の、エアーズロックを目指しての旅がはじまった。

 車で同行してくれるオーストラリア人スタッフはロン、マシュー、サイモンの3人。ロンがチーフで、マシューがメカニック担当、サイモンが料理担当だ。最初の夜ということで、ぶ厚いTボーンステーキを各人に1枚、焼いてくれた。ワイン、ビールを飲みながらTボーンステーキにかぶりつく。これぞ、オーストラリアの味!

 満腹になったところで、焚き火を囲み、全員で自己紹介。お互いの顔と名前を覚えると「豪州軍団」の面々は、いっそう親密感を増していった。

オーストラリアのダートに突入!

 ブリスベーンから700キロ西のチャールビルが国道54号の終点。この町では、日本からやってきたバイクツアーということで、地元紙の取材を受けた。

 チャールビルを過ぎると、延々と1800キロもつづくダートに入っていく。その初っぱなの洗礼はあまりにも強烈だった。

 ブルダスト(細かい粒子の砂溜まり)に突っ込むと、ターク(目木正さん)はバイクごと吹っ飛び、頭と胸を強打した。ヘルメットに穴があくほどの衝撃の大きさだった。お水(小船智弘さん)もブルダストで転倒し、足首をプクーッと腫らした。

 ブッシュの中のダートは怖い!

 小石をはね上げ、100キロ近い高速で走っている目の前に、何の前ぶれもなくカンガルーが飛び出してくる。転倒覚悟で急ブレーキをかけ、からくもカンガルーとの衝突を避けたことが何度もあった。それほど、このあたりにはカンガルーが多い。道端には、車と衝突して死んだカンガルーの死骸が累々とつづいている。その光景はまさにオーストラリアの荒野の象徴だ。

 アバダレー、ビトゥータとキャンプをつづける。オーストラリアの内陸部はカラカラに乾いているので、簡単に薪を燃やせる。キャンプファイヤーを囲んで、連夜の大宴会。「豪州軍団」は盛り上がる。見上げる夜空には満天の星。南十字星もよく見える。

泥土と洪水との大格闘‥‥

 ブリスベーンの西1600キロのバーズビルからは、難関のバーズビル・トラックに入っていく。異常気象でダートルートはズタズタになっているという。

 バーズビルからマリーまでの530キロがバーズビル・トラックで、歴史の古い道。探検家や新天地を求めて移民してきたイギリス人開拓者らが、キャメル・トレイン(ラクダに引かせた荷車)で通った道なのだ。シンプソン砂漠東側のルートで、ここまで来ると、カンガルーもいない。

 バーズビル・トラックはカラカラに乾ききった砂漠地帯の道で、ふだんの年ならばブルダストにさんざん悩まされることになる。ところが何年ぶりという大雨が降った。平原は水びたしになり、ルートは閉鎖された。それがぼくたちが行った2日前にオープンしたのだ。大雨はすでに峠を越し、空には一片の雲もない。抜けるような青空だ。

 バーズビルを出発してから200キロぐらいは快調に走れた。荒野を一面に染めて黄色い花が咲き乱れる砂漠の花園を楽しみ、赤い小石がびっしりと敷きつめられた一木一草もない砂漠ではルートを外れ、自由自在に石の原を走りまわった。それがキャンプ地のムランジェラニに近づくと路面はラフになり、何本もの轍ができている。大雨で車が苦戦した跡を物語るかのように、轍は深くえぐれている。

 ムランジェラニまで、あと100キロぐらいという地点まで来ると、ヌルヌルの泥土。ここでツルッと滑り、転倒‥‥。オーストラリアの初転倒だ。ねちっこい泥がからみつき、バイクを起こすのも容易ではない。

 ゆるやかに起伏しているところでは、低地は一面、水びたし。そこを一気に駆け抜けようとしてアクセル全開で突っ込むと、キャブが水を吸ったのか、エンジンが止まってしまう。泥土と洪水との果てしない大格闘がつづく。

 日没後にムランジェラニに到着。もう、グッタリだ。

 この先、川が氾濫し、通れないかもしれないという。そうなったらエアーズロックへの道は絶たれてしまう。

「まあ、なるようになれ、さ」

 と、「豪州軍団」の面々は、いつものように、焚き火を囲んで深夜までの大宴会をくり広げた。

 翌朝、祈るような気持ちでムランジェラニを出発。70キロ先の川が氾濫し、激流と化していた。まず、歩いて渡ってみる。大丈夫だ。

「行けるゾ!」

「豪州軍団」の面々は、激流の中に突っ込んでいった。川の中で転倒し、バイクごと流された者もいたが、女性陣は見事にクリアーし、3人で抱き合って喜んでいる。

 こうしてバーズビル・トラックを走り切り、マリーに到着した。サイモンがつくってくれたサンドイッチをぱくつき、デザートのスイカを食べたあと、しばしの眠りをむさぼった。

 昼寝で体力を回復させ、次に、これまた大きな難関のウーダナダッタ・トラックに入っていく。大陸中央部を縦断するスチュワートハイウェイのマルラまで、610キロのダートがつづく。

 このウーダナダッタ・トラックも幾多の探検家や開拓者たちの通った古い道。オーストラリア最大の湖、エアー湖の南側を通っていくのだが、いつもの年ならば大半が干上がってしまうというこの湖も、満々と水をたたえている。エアー湖の湖面は海面下20メートルというオーストラリアの最低地点だ。

 何本もの川を渡っていく。川渡りの連続で、バイクの電装部品がやられ、ひんぱんにエンジンストップに見舞われる。そのたびにヒーヒーハーハーいってスターターをキックしてエンジンをかけた。

 ウィリアムクリークのキャランバンパークで泊まり、ウーダナダッタの町を通り、ついにウーダナダッタ・トラックも走り切ってマルラに着いた。スチュワートハイウェイのアスファルトを見たときは、「助かった!」と、思わず声が出たほどだ。

エアーズロックのてっぺんに立つ!

 スチュワートハイウェイは、北のダーウィンと南のアデレードを結ぶ全長3300キロの大陸縦断路。1800キロものダートを走ったあとで、このスチュワートハイウェイのセンターラインの引かれた舗装路に出たときの喜びといったらない。マルラのキャラバンパークで泊まったが、大きな難関を突破したので、我ら「豪州軍団」、その夜はいつも以上に盛り上がった。オーストラリアの国民食のようなバーベキューを食べながら話がはずむ。心が踊る。

「今夜は、とことん、飲もう!」

 と、食事のあとは焚き火のまわりに場所を移し、カンビールをガンガン飲み干し、ウイスキーのボトルを2本、あけた。全員で力を合わて難関を乗り越えた喜びが、爆発したかのような夜だった。おかげで翌日は、二日酔い。割れるように痛む頭をかかえての出発となった。でも、それがまたいいのだ。

 マルラからスチュワートハイウェイを北へ。DR350で切り裂く乾ききった風は、肌に突き刺さってくるほどに冷たい。このあたりは南回帰線近くの亜熱帯とはいえ、季節は真冬なので、朝晩、けっこう冷え込む。それでも日が高くなると強い日差しがカーッと照りつける。いっぺんに気温が上がり、冬から夏へと季節が急速に変わる。砂漠気候は厳しい‥‥。

 マルラから北に250キロのエルダンダでスチュワートハイウェイを左折し、エアーズロックへの道に入っていく。前方にテーブル状の赤い岩山が見えてくる。一瞬、「あ、エアーズロックだ!」と体が震えたが、それは“にせエアーズロック”のコナー山だった。 エルダンダから西に250キロ走ると今度は正真正銘のエアーズロックが見えてきた。

 平原にそそりたつ世界最大の一枚岩には、ハッと胸を打たれる威厳があった。先住民のアボリジニが“ウルル”と呼ぶ聖なる岩山だ。

 西日を浴びて赤く染まったエアーズロックに向かって突っ走る。バイクに乗りながら、拳を空に向かって突き上げ、「やったゼー!」のガッツポーズ。東海岸ブリスベーンを出発してから7日目のことだ。

 エアーズロックを真正面に眺めるところで、15台のバイクを並べる。「豪州軍団」の面々の夢が現実のものになった瞬間だ。お互いにガッチリ握手をかわしたり、抱き合ったり、目にいっぱい涙を浮かべる人もいた。ここまでの道のりが厳しいものだっただけに、エアーズロックにたどり着いた喜びはひとしおだった。

「このまま、日が暮れるまで、エアーズロックを見つづけよう!」

 と、全員の意見が一致。エアーズロックが織りなす大自然のショーをみんな、食い入るように見つづける。これほどすばらしいショーがほかにあるだろうか‥‥。夕日が傾くにつれてエアーズロックは刻一刻とその色を変えていく。夕日が地平線に落ちる直前には、まるで炎を燃えたぎらせるように真っ赤に染まる。

 翌朝は、まだ暗いうちにキャンプ地を出発。今度は、地平線に昇る朝日を浴びたエアーズロックを見る。そのあとで、急勾配の岩肌に這いつくばるようにしてエアーズロックに登った。長年、憧れていただけに、頂上をきわめたときの感動といったらない。360度の大展望。大陸中央部の大平原は際限なく広がっている。はるかかなたにはオルガ山が見える。標高867メートルのエアーズロックの山頂で、我ら「豪州軍団」はシャンペンをあけ、「乾杯! 乾杯!」と、乾杯を繰り返した。

「豪州軍団」の面々よ

 11日間の寝食をともにした「豪州軍団」の面々は、メンバー全員で力を合わせて洪水の平原を突破し、エアーズロックに到達した。さらに9夜連続のキャンプでは、夜中まで焚き火を囲んでおおいに飲み、語り合った。そのため、いやがうえにもメンバーの結束は強まり、強固な連帯感を持つようになった。それだけに、バイクツアーが終わってしまったときのみなさんとの別れには辛いものがあった。

 帰国後、「豪州軍団」のみなさんからは、何通ものお手紙をもらった。それらを通して「目指せ、エアーズロック!」のバイクツアーがどんなものだったのかを紹介しよう。

「不安なこと、辛いこともたくさんありましたが、賀曽利さんの笑顔と励ましに助けられました。足が痛かったとき、一番心配してくれましたよね。手を貸してくれたときの賀曽利さんのあたたかさが忘れられません。最大の収穫はみなさんと出会えたこと。みなさんそれぞれに魅力的で、素晴らしい人ばかりでした。オーストラリアから帰って1ヵ月が過ぎようとしていますが、アルバムを毎日のように引っぱりだしてはながめています…」(熊本・錦戸陽子)

「マッドやサンド、また、ブッシュでのキャンプを何とか乗り切れたのも、賀曽利さんの明るさと今までの経験のおかげだと思っています。これからも事故や怪我などしないで、日本の峠や林道、温泉をかけめぐって下さい」(栃木・小倉則夫)

「日本に帰ってきてから、親に見違えるようになった‥‥とはいわれずに、前と変わっていないとか、よけいに悪くなったといわれている僕ですが‥‥。あー、もう一度、エアーズロックに行きたい!」(福岡・北川清二)

「大陸の中央部では、3年ぶりという大雨が降って、エアーズロックまで行けないのではないかと心配しましたが、無事に平原にそびえるエアーズロックにたどり着くことができて感無量でした。というのも、それまでの道のりが困難の連続だったからです。ブルダストで倒れた仲間を助けたり、みんなでバイクを押して河を渡ったり‥‥と、ほんとうにみんなの心がひとつになっていましたよね。今度はぜひともオーストラリア大陸を一周したいと思います」(北海道・福井勝)

「オーストラリアツーリングの毎日はすごく楽しくて、朝早くから目が覚めてしまいました。私がきっと一番、と思ってキャンプ地を歩いていると、いつも私より早起きの人がいるではありませんか! それが賀曽利さんでした。朝一番に賀曽利さんの笑顔に出会うと、その日は一日中、元気でいられるような気がしました。私がドロで転んでシュンとしているときも、賀曽利さんの一言で元気づけられ、最後まで走ることができました。それにしても、あのエアーズロックの夕焼けといったら‥‥。きっと、一生忘れることができないと思います。今でも目を閉じると、夕日を浴びて刻々と色の変わっていくエアーズロック雄大で威厳に満ちた姿がまぶたによみがえってきます」(栃木・増山陽子)

 増山さんの愛称は“まっちゃん”。この手紙にある転倒は中途半端なものではなく、高速でマッド状の轍に突っ込み、そのまま吹っ飛ばされたというもの。目撃したメンバーの話によると地面にたたきつけられ、3、4度、転がったという。それをまったくの無傷で切り抜けられたのは、体がやわらかくて、なおかつ、とっさの受け身をとることができたからだろう。そんな“まっちゃん”も結婚して今では渡辺姓になっている。

 錦戸陽子さん、増山陽子さんのほかにもう1人、上原和子さんの“美女3人組”が、我ら「豪州軍団」の女性陣。最初はこのきついコースをほんとうに走りきれるのだろうか‥‥と心配もしたが、それはまったくの杞憂にしかすぎなかった。長距離走行にも、高速走行にも、ダート走行にも、彼女らはあっというまに慣れていった。

 上原和子さんにつけられたニックネームは“P和子”。上原さんは225㏄のセローで350㏄のDRを激しく追い上げ、まるでパトリオットミサイルのような迫力で走るので“P和子”になった。そんな上原さんも結婚して今では五十嵐姓になっている。

「大変ご心配をおかけしました。帰国後、早速、病院で診察を受けましたが、頭部に異常は認められないとのことで、一安心といったところです。胸部は肋骨が見事に折れていて、ほかにも数箇所にヒビが入っているとのこと。首の捻挫と合わせ、1ヵ月の加療が必要だといわれました。ですが今回、ケガしたことによって、人の優しさにふれることができました。ツアーのメンバーたち、ツアーのスッタフたち、旅の間に出会った人たちと、すべての人たちに感謝の気持ちでいっぱいです」(大阪・目木正)

 愛称タークの目木さんは、先にもふれたように、ブルダストにハンドルをとられて吹っ飛ばされ、頭と胸を強打した。だが、そのあと、胸をガムテープでグルグル巻きにしてバイクに乗ったツワモノ。タークにとってラッキーだったのは、上原和子さんと錦戸陽子さんが看護婦さんだったこと。タークは2人の手厚い看護を受けたのだ。

「オーストラリアの砂漠から帰ってきての、関東の長雨にはまいりましたヨ。ところで大阪のタークは頭に異常がないとのことで、まずは良かったですネ。私の方は、骨の1本でも折ってくるのではないか‥‥という周囲の期待!?を見事に裏切り、“お水”(メンバーの小船智弘さんの愛称)のいうところの“無駄な元気”を発揮し、存分に遊びまわってきました。ホントに楽しいオーストラリアツーリングでした。豪州軍団の再会を心待ちにしています」(東京・武田健一)

 愛称“武田のお父さん”の武田さんは「豪州軍団」の最年長だったが、一番の元気者。そのパワーには全員が脱帽で、“お水”に“無駄な元気”といわれたほど。そんな武田さんはこの手紙にもあるように、「目指せ、エアーズロック!」のオーストラリアツーリングを心から楽しんでいた。

 このように一枚岩の連帯感を発揮したすばらしい仲間の「豪州軍団」だったが、強烈な個性を発揮してくれた“パフォーマンサー坂間”こと坂間克己さんが幹事役となって帰国後、すぐに再会の話がまとまった。バイクツアーの翌々月の9月には、“日本のエアーズロック”といわれている和歌山県古座川の一枚岩の下に、北は北海道から南は九州から、「豪州軍団」のメンバーほぼ全員が集まり、キャンプした。みんなでおおいに盛り上がったことはいうまでもない。

「豪州軍団」のキャンプはその後も毎年、場所をかえて日本各地でおこなわれている。軍団結成5周年の1998年には静岡県秋葉山下で2夜連続のキャンプがおこなわれた。

 今年(2000年)のキャンプは静岡県浜北市の森林公園だった。“ノリダー”こと小倉則夫さんは奥さんの美也子さんと健一郎クン、美紀チャンの家族連れで来た。奥さんは3人目をみごもっていた。“パフォーマンサー坂間”こと坂間克己さんも奥さんの裕子さんと遼太クンの家族連れで来たが、坂間夫人も2人目をみごもっていた。“ターク”こと目木正さんは、2人の子供が熱を出してしまったということで、奥さんと子供たちを家におき、そのかわりにお父さん、お母さんを連れてきた。

「目指せ、エアーズロック!」ツーリングのときには、小倉さんにしても坂間さん、目木さんにしても独身だった。それが結婚し、子供を持つような父親に変わっていく姿を見ると、時のたつ速さに驚かされてしまうのだ。

 それにしても、この少子化の時代に、多産系の我が「豪州軍団」の面々はすごい。ぼくは子供を3人持っていることもあって、「目指せ、エアーズロック!」のツーリングの最中、ことあるごとに「子供は3人がいいゾ!」といいつづけた効果があったかな、などと思っている。