賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

カソリの中国旅40年(5)

 バイクで中国を初めて走ったのは1994年の「タクラマカン砂漠一周」。そのときの「中国旅」を『世界を駆けるゾ! 40代編下巻』(フィールド出版・2000年11月刊)より紹介しよう。

第3章 タクラマカン砂漠一周

中央アジアの探検家になるんだ!」

 中央アジアタクラマカン砂漠というのは、ぼくの子供時代からの憧れだった。

 小学校4年生のときのこと。国語の教科書に、スウェーデンの探検家、スウェン・ヘディンのタクラマカン砂漠横断記がのっていた。命がけで大砂漠を越え、ホータン川の河畔にたどり着くまでの物語は、胸がジーンと熱くなるほどに感動的だった。それ以降というもの、ぼくは夢中になって、中央アジア探検記を読みあさった。

「大人になったら、絶対に、中央アジアの探検家になるんだ!」

 と、子供のころは本気でそう思っていた。

 中学生になっても、ぼくの中央アジア熱は衰えず、シルクロード横断を夢みていた。それが高校生になるころから、

中央アジアの探検家だなんて、なれるわけがない‥‥」

 と、へんに現実に目覚めてしまい、いつしか中央アジアはぼくの視界から遠のいていった。

 あれから30数年、ついに子供のころの夢を実現させるときがやってきた。

 第1章でふれた東京・目黒の旅行社「道祖神」主催のバイクツアー「カソリと走ろう!」シリーズの第2弾で、タクラマカン砂漠を走ることになったのだ。

我ら「新疆軍団」、成田に集合

 1994年9月21日、ぼくは胸を踊らせて神奈川県伊勢原市の自宅を出発。ヘルメットやブーツ、バイク用のウエアなどの入ったバッグを手に持ち、ザックを背負って小田急線で新宿に出る。新宿からは13時42分発の「成田エクスプレス21号」に乗り、14時58分、成田空港に到着。

「さー、これから始まるんだ、夢のタクラマカン!」

 と、まわりにいる人たちに叫んでまわりたいような気分だった。

 団体専用のカウンター前で、我ら「新疆軍団」のメンバーと落ち合う。うれしいみなさんたちとの出会いだ。参加者11名のほかに、ツーリングバイク誌『アウトライダー』副編集長の菅生雅文さん、「道祖神」の菊地優さん、それとカソリの総勢14名。

 今回のバイクツアーは「賀曽利隆と走るタクラマカン砂漠縦断12日間」。あのスウェン・ヘディンのホータン川沿いのルートで、タクラマカン砂漠を北から南へと縦断しようという企てだ。

 参加者の11名のみなさんは、多士済々の、ツワモノそろいだ。

 坂間克己さんは「目指せ、エアーズロック!」で一緒に走った「豪州軍団」の仲間。飯田明男さんは1992年に50日もの休暇をとり、オーストラリアを走った。そのときの旅を『夢は荒野を駈ける-酔どれサラリーマン、豪州大陸を行く』(蝸牛社)という本にまとめている。

 永長紀明さんはニュージーランド、鹿島孝智さんはモンゴルを走った。仲洋一さんは3度目の新疆。手塚克之さんは「日本一周」を成しとげ、タクラマカンの次はサハラだといっている。

 菅原裕さんは「アウトドア命!」。寺町玲さんは大学で中国語を専攻したが、新疆はそのころからの憧れの地だ。「オフ車に乗るのは初めてなんですよ」という川又清豪さんは20万円をかけて東京・上野で買いそろえてきたというピカピカの用品を手に成田にやってきた。「新疆軍団」最年少の黒川高広さんは、何事にもきわめて好奇心旺盛だ。

 紅一点の滝沢敏子さんは信州美人。シルクロードツーリングの経験者なのだ。タクラマカンでは中国人スタッフに大モテだ。

 成田発18時00分のUA(ユナイテッド航空)853便で北京へ。北京到着は21時25分。日本とは1時間の時差があるので、4時間25分の飛行時間だ。

 空港からはマイクロバスで市内へ。完成間もない高速道路を突っ走り、中心街に入っていく。6年ぶりの北京だったが、高速道路の完成といい、新しい高層ビル群といい、中国の経済的な発展が一目でわかるような北京の変わりようだった。

「北京展覧館賓館」に泊まる。“賓館”とはホテルのこと。「新疆軍団」の面々は、ホテルに到着早々、これからの旅の安全を祈ってビールで乾杯した。

空から見下ろすタクラマカン砂漠

 翌日は午前中、北京市内を見学。レストランで昼食を食べたあと、13時40分発のXO(新疆航空)9102便で新疆ウイグル自治区の中心地ウルムチに飛んだ。その距離は2600キロ。「東京→北京」と同じくらいの距離になる。その間ぼくは、飛行機の窓ガラスに顔をピッタリとくっつけ、夢中になって外を眺めつづけた。眼下には小さいころからの憧れの世界が広がっている。

 華北の大平原から山地に入ると、まず万里の長城が見えてくる。緑は急速に薄れ、荒涼とした乾燥地帯の風景に変わっていく。真っ茶色の黄河の流れを見下ろす。左手に雪山が見えてくる。邦連山脈だ。右手には一望千里のゴビ砂漠。その間の“河西回廊”の上空を飛行機は飛んでいく。シルクロードはこの廊下状の“河西回廊”を通っている。シルクロードの上空からの探遊だ。胸のときめきをもう抑えられない。

「いつの日か、きっと、この道をバイクで走ってやる!」

 飛行機は新疆ウイグル自治区に入っていく。シルクロードの要衝ハミの上空を通過すると、右手に雪山が見えてくる。天山山脈だ。左手にはタクラマカン砂漠は地の果てまでもつづいている。

「この中をバイクで走っていくのか‥‥」

 と思うと、期待と不安、そして極度の緊張で背筋がゾクゾクッとしてくる。

 特徴のある雪山のボゴタ峰(5445m)が見えてくると、じきにウルムチだ。ウルムチ到着は17時40分。空港からマイクロバスで中心街に入っていく。人口150万人の大都市だ。「華僑賓館」が「新疆軍団」の一夜の宿になる。

 東経87度とインドのカルカッタとほぼ同じくらいの経度上に位置するウルムチなのだが、北京とは信じられないことに時差がないので、6時を過ぎても、7時を過ぎても明るいのだ。

 さっそく、我ら「新疆軍団」、まだ明るい夜のウルムチの町へと繰り出していく。同じ中国とはいっても、北京とは全然、世界が違う。町を歩くウイグル人を見ていると、イラン人やトルコ人を連想してしまう。店の看板などのウイグル語の文字も、ウルドゥー語ペルシャ語アラビア語の文字にそっくりだ。そんなウルムチの町を歩いていると、東アジアから西アジアに入ったかのような錯覚にとらわれる。まさに東西アジアの中間の中央アジアの世界なのである。

 憧れのタクラマカン砂漠を前に、意気上がる「新疆軍団」は、食堂を借り切ったような気分で大宴会。シルクロードで大はやりの料理、大盤鶏をいうとびきり辛い鶏料理を食べながら、白酒で乾杯を繰り返す。白酒というのは、コウリャンを原料とする蒸留酒で、火がつくほど強い酒。白酒をたっぷり飲んだ「新疆軍団」の面々は、ふらつく足でホテルに戻るのだった。

「さー、いよいよ、明日からタクラマカン砂漠だ!」

天山山脈を越えて

 翌日、ウルムチからプロペラ機でアクスに飛んだ。

「ウワー、スゲー!」

 思わず、感嘆の叫び声が出る。

 プロペラ機の小さな窓から見下ろす視界いっぱいに、天山山脈の雪山がうねるようにして、はてしなくつづいている。

「天山、天山、天山‥‥」

 と、今までに何度、「天山」を口に出していったことか。

 天山山脈崑崙山脈パミール高原、ヒンズークッシュ山脈といったタクラマカン砂漠をとりかこむ大山脈、天山山脈をはさむ天山北路、天山南路の2本のシルクロード、海面下のトルファン盆地、タクラマカン砂漠を流れるタリム川、“さまよえる湖”のロプノール‥‥と。

 これらは耳にするだけで、背筋がゾクゾクッとするほどの、ぼくの長年の憧れの地なのだ。ついに今、その憧れの地にやってきた!

 ウルムチから天山南路のオアシス、アクスに飛ぶ飛行機の窓からは、天山山脈の山々が手にとるような高さで見えるのだ。窓ガラスにぴったり顔を押しつけて、あきることなく天山山脈の山々を眺めつづけた。天山山脈を越えると、その南には一望千里の大砂漠、タクラマカン砂漠が延々とはてしなく広がっている。

 天山南路のオアシス、アクスでは、全部で12名の中国人スタッフが我ら「新疆軍団」を待ち受けてくれていた。トヨタランドクルーザーが3台、ニッサンのピックアップが1台、我々の乗るバイクを積んだトラックが1台という大ががりなサポート態勢だ。バイクは新疆モーターサイクル協会の所有するホンダのモトクロッサー、CR80とCR125、CR250である。

 このような大部隊で、アクスからホータン川沿いにタクラマカン砂漠を縦断し、崑崙山脈北麓のホータンに出ようという計画。その距離は700キロになる。

 アクスでは「阿克蘇賓館」に泊まり、アクスの町を半日、ぷらぷら歩いた。バザール(市場)歩きが楽しい。トルファンのブドウ、ハミのウリ、コルラのナシ、カシュガルのザクロといった、シルクロードの各オアシス特産の果物が山積みにされている。それら特産の果物を食べながら、シルクロードをも味わった。

タリム川の大湿地帯は水びたし‥‥

 1994年9月24日、アクスを出発。「新疆軍団」の面々は各自、バイクにまたがり、エンジンをかけ、走り出す。感動の瞬間だ。バイクでのタクラマカン砂漠縦断の旅がはじまった。ぼくはCR250に乗った。

 長い隊列を組んで南へと走っていく。ダート道なので、土けむりが尾を引いて流れていく。やがてタリム川の大湿地帯に入っていく。赤っぽく見えるタマリスクやトゲの多いラクダ草が一面にはえている。

 この大湿地帯が大きな難関だ。

 天山山脈から流れてくるアクス川、パミール高原から流れてくるカシュガル川、ヒンズークッシュ山脈から流れてくるヤルカンド川、そして崑崙山脈から流れてくるホータン川がこの地点で合流し、タリム川になる。ところが何日か前に崑崙山脈に降ったという大雨で、なんとこの大湿地帯が水びたしになっているという。九州山地に降った大雨で、関東平野が水びたしになるようなものだ。この大湿地帯を突破できるかどうかは、実際に現地まで行ってみないことにはわからないという。

 何本もの川を渡っていくと、やがて道は水没してしまう‥‥。

「なんとしても、このタリム川の大湿地帯を突破してやる!」

 といった意気込みで、新疆モーターサイクル協会の孫さん、杜さん、と一緒に走れそうなルートを探し求めたが、糸のように細いルートは、どれも大湿地帯の水の中へと消えていく。万事休す。タクラマカン縦断を断念しなくてはならない。

 このような逆境には滅法強いカソリ、間髪を入れずに、気持ちを切り換える。縦断がだめなら一周だ。さっそく道祖神の菊地さんと中国側スタッフと協議し、タクラマカン砂漠一周ルートでホータンを目指すことにした。「新疆軍団」の意見も一致し、アクスからホータンへ、今度はぐるりとタクラマカン砂漠を一周するルートを反時計回りで走り出す。ぼくはホータンでみなさんと別れたあと、さらに残りの半周を走り、なんとしてもタクラマカン砂漠を一周するのだ。

 だが、問題なのはバイクだ。ホンダのCRは競技用モトクロッサーなので、ヘッドライトやテールランプ、ウインカー、ホーンなどの保安部品は一切ついていない。そのようなバイクでホータンまでの1000キロを走ろうというのだ。そのようなリスクを背負っての旅立ち。街道の検問所にさしかかるたびに冷や冷やするのだった。

タクラマカンの大宴会

 天山山脈南麓の天山南路を走る。シルクロードのメインルートだ。右手には青く霞む天山山脈の山々が長くつづいている。左手にはタクラマカン砂漠が茫々と広がっている。

 夜はタクラマカン砂漠の涸川で野宿した。川に水は一滴も流れていない。川床の砂の上にシートを広げ、シュラフを敷く。サハラと同じような、テントなしの、いつものカソリ流野宿の仕方だ。

 その夜は最高! 我ら「新疆軍団」と中国側スタッフ合同の大宴会となった。中国側スタッフのみなさんは羊1頭をつぶし、羊料理の大盤振る舞いをしてくれる。砂漠ではなんたって羊が一番うまい。羊肉にくらいつきながら、白酒で乾杯を繰り返す。我ら「新疆軍団」と中国側スタッフは、あっというまにうちとけていった。

 人気者は“パーリン”だ。我らのマドンナ、滝沢敏子さんはCR80に乗っているので“パ-リン(中国語で80)”と呼ばれているが、中国側のスタッフは“パーリン”、“パーリン”ともう大変なのだ。

 天山山脈南麓の天山南路をカシュガルの手前で左に折れ、世界第2の高峰K2から流れてくるヤルカンド川沿いに走り、ヤルカンドの町で今度は崑崙山脈北麓の西域南道に入っていく。

 ヤルカンド周辺のオアシス群を走り抜けると、西域南道の両側には、タクラマカン砂漠の一木一草もない風景がはてしなくつづいている。右手に連なっているはずの崑崙山脈は、砂のベールに隠れ、その姿はまったく見えない。強い風が吹きはじめると、あっというまに砂嵐の様相となり、まるで大蛇がうねるように砂が道を流れていく。

 砂嵐がおさまったところで、イエチェンの分岐点を通り過ぎる。胸がキューンとしてくる。直進する道は西域南道でホータンに通じているが、左折する道は崑崙山脈の5000メートル級の峠を越え、チベット高原を横断し、ラサへと通じている。

「いつの日か、きっと、この道を走ってやる!」

 と、バイクに乗りながらそう叫ぶカソリだった。

 西域南道をさらに走りつづけ、ホータンを目指す。前方にはタクラマカン砂漠の大砂丘群が見えてきた。我ら「新疆軍団」の面々は、まるでそれに吸い寄せられるかのように、道を外れ、砂の海に何本もの轍を残して突っ走る。大砂丘群の下まで来ると、記念撮影だ。

「ここは、どこだ!」

タクラマカンだ!」

 そんな記念撮影のセレモニーが終わると、

「あのピークを目指そう!」

 と、各自、思い思いも格好で砂丘を登りはじめる。ぼくはバイク用のブーツもウエアも脱ぎ捨て、パンツいっちょの、裸で裸足という格好で砂丘を登った。全身でタクラマカンのサラサラした砂の感触を味わいたかったのだ。

 砂丘のてっぺんに立つ。

「今、アジア大陸のど真ん中にいる!」

 といった感動に酔いしれる。タクラマカン砂漠砂丘群はどこまでも、どこまでも果てしなくつづいている。そんな大砂丘群の姿が目の底に残る。

タクラマカン温泉に入ろう!」

 と、砂丘のてっぺんの砂を掘り、その中にもぐり込む。砂湯だ。展望浴場だ。まったくべとつきのない、サラサラした砂の感触がたまらない。

 砂丘の頂上からの帰路は、ゴロンゴロンところがり落ちた。これが最高の気持ちよさ。砂はまったく体にまとわりつかない。こうしてぼくたちは、大砂丘群でタクラマカン砂漠を存分に楽しんだ。

 アクスを出発してから5日目、我ら「新疆軍団」は1000キロを走りきり、ついにホータンに到着した。我々の宿となる「和田賓館」の玄関前で各自がビールのびんごと持って乾杯! 「新疆軍団」の紅一点の“パーリン”は、目にいっぱい涙を浮かべている。中国側スタッフのみなさんは、ババババーンと激しく爆竹を鳴らしている。感動的なホータン到着のシーンだった。

新疆はアジアの十字路

 崑崙山脈北麓のホータンは、西域南道の要衝の地。その昔、『大唐西域記』を書いた僧の玄弉や『東方見聞録』を書いたマルコポーロらが、ホータンに滞在している。

 翌朝は、まだ暗いうちに起き、ホータンの町を歩いた。唯一、明かりをつけて店を開けているのが、ナン屋だった。

「朝一番で早いのは、ホータンのナン屋」

 と、子供の歌の替え歌を口ずさんでしまったほどだ。

 新疆では西アジアの国々と同じように、ナンが主食になっている。“朝一番で早いホータンのナン屋”の光景は、インドの未発酵パンのチャパティ西アジアの半発酵パンのナン、ヨーロッパの発酵パンとつづくユーラシア大陸西半分の粉食圏(穀物を粉にして食べる食文化圏)の“パン圏”に、新疆が含まれていることを強烈に感じさせるものだった。

 新疆がおもしろいのは、それだけにはとどまらないことだ。

 アクスからホータンに来るまでの間、タクラマカン砂漠のオアシスの町々の食堂で何度か食事をしたが、一番よく食べたのは麺である。よくこねた小麦粉を手で延ばした手延の麺。それを拉麺などといっているが、ゆで上げた麺の上に、具のどっさり入った汁をかけて食べる。

 それと饅頭だ。食堂の店先にはたいてい蒸籠を置いて、饅頭をつくっている。中には何も入っていない饅頭で、食事のときには籠の盛って、パンのような食べ方をしている。羊肉などの入った饅頭の包子もつくっている。これら麺、饅頭はユーラシア大陸東半分の粉食圏の“麺・饅頭圏”特有の食べ物である。

 つまり新疆は東アジアと西アジアの食文化圏が大きくぶつかり合うところで、ここはまさに“アジアの十字路”なのである。

タクラマカン砂漠一周」達成!

 ホータンで「新疆軍団」の面々と別れた。みなさんは飛行機でウルムチに飛び、北京から東京へと戻っていく。ぼくはといえば、タクラマカン砂漠の残りの半周ルートを走るのだ。ウルムチまでは2000キロの距離である。ウルムチまでは中国側スタッフの高さん、張さんの乗るトヨタランドクルーザーと、孫さん、郭さんの乗るニッサンのピックアップがサポート車としてついてくれる。ピックアップには予備のバイクとして、CR125を1台、積んだ。

 ホータンを出発。西域南道をさらに東に向かっていく。100キロ先のケリアを過ぎると舗装路が途切れ、ダートに入っていく。先頭をトヨタランドクルーザーが走り、ぼくのホンダCR250がつづき、最後をニッサンのピックアップが走った。先頭車の巻き上げる土煙の中を走っていくので、あっというまに埃まみれになる。ところどころ砂の深い区間もあったが、ルートは比較的整備されていて走りやすかった。道標も点々とある。

タクラマカン砂漠一周」後半戦の第1日目は、ホータンから320キロのニヤで泊まった。

 第2日目はニヤから330キロのチェルチェンへ。この区間では、とんでもないアクシデントが発生した。なんとニッサンのピックアップが走行中に、突然、爆発したのだ。孫さん、郭さんはからくも脱出できたが、郭さんは腕に火傷を負った。

 荷台に積んだガソリンに引火し、車はあっというまに炎に包まれる。砂をかけて消火したが、見るも無残な残骸だけがあとに残った。予備のバイクのCR125はフレームとギアだけが残り、エンジンは溶けて合金の固まりになっている。両輪のリムも溶け、あとかたもない。すさまじいばかりの燃え方だ。

「あー、これで、タクラマカン砂漠一周の夢も絶たれた‥‥」

 と、火を消し終わったあと、しばらくは呆然として砂の上にひっくりかえっていた。グッタリ、ガックリ‥‥といったところだ。

 残った1台の車とバイクでチェルチェンに到着したのは、夜中の12時過ぎだった。

 ガソリンやオイルの問題があるので、バイクで行くのはもう無理だろうと、ぼくはもう完全に諦めの気分だった。ところが中国側のスタッフのみなさんは、予定どおりにウルムチまで行くという。高さんはチェルチェンの町をかけまわって、バイク用の2サイクルオイルを手に入れ、新たにジェリカンを買って予備のガソリンを確保したのだ。そして彼は事故の後始末でチェルチェンに残ることになった。

 第3日目は午後に出発し、チャリクリクへ。距離は450キロ。一直線に南へ、崑崙山脈に向かっていくルートが圧巻だった。6000メートルから7000メートルの崑崙山脈の雪山が、夕日を浴びて薄紅色に染まっていた。その山麓を走っていく。右手に崑崙山脈、左手にタクラマカン砂漠砂丘群。これはまさにぼくの長年、憧れてきた風景そのものではないか。感動に胸が震え、その夕暮れの風景はしっかりと目の底に焼きついた。

 日が落ち、暗くなっても走りつづける。CR250は競技用のモトクロッサーなのでライトがない。ライトなしの夜間走行。恐ろしいことこの上もない。最初はランドクルーザーの後ろにつき、尾灯を目印にしたが、暗すぎて走れたものではない。そこでランドクルーザーの前に出、そのライトを頼りにして走った。深い砂溜まりが辛い。よく見えないのでやたらと砂の壁にぶつかったり、より砂の深いところに突っ込み、何度もスタックしてしまう。チャリクリク到着は前夜にひきつづいて夜中の12時過ぎだった。

 ところでホータン→ケリア→チェルチェン→チャリクリクと西域南道を走ってきたのだが、これらの地名はウイグル語のもの。中国語だとケリアが于田(ユイテン)、ニアが民豊(ミンフン)、チェルチェンが旦末(チモア)、チャリクリクが若羌(ルアチャ)になる。中国の中に2つの国が同居しているようなものだ。

 第4日目は崑崙山脈北麓のチャリクリクから天山山脈南麓のコルラへ。東部タクラマカン砂漠の縦断だ。ルートはしっかりしている。このルートのすぐ東には、あの“さまよえる湖”のロプノール湖や、砂漠に消えた都市国家楼蘭がある。

 タリム川が砂漠に消えていくその最先端部を見る。我々が想像する川というのは、下流になればなるほど大きな流れになっていくが、海への出口を持たない砂漠の川はまったくその逆なのである。

 タリム川はこの章の最初でもふれたように、アクスの町の南側でアクス川、カシュガル川、ヤルカンド川、ホータン川が合流してできる川。その合流地点、つまりタリム川が生まれたばかりの地点が最大の流れで、下流に流れ下っていくにつれて先細りし、最後は水のまったく流れていない涸川になってしまう。

 涸川のタリム川に沿ってコルラに向かって北に走っていくと、タリム川にはやがて水が流れるようになり、流れは大きくなり、感慨用の水路とその水を使った畑が見られるようになる。尉梨の町でタリム川の流れと別れ北へ。前方には紫色に霞む天山山脈の山々が連なっている。コルラに近づくにつれて天山山脈の山並みは、はっきりと見えるようになってくる。こうしてチャリクリクから460キロ走り、天山山脈南麓の石油ブームに湧くコルラの町に着いた。

 第5日目は490キロ走り、「タクラマカン砂漠一周」のゴール、ウルムチへ。その間は全線が舗装路で、交通量も多い。天山山脈支脈の峠を越え、トルファン盆地に下っていくときが、まさに圧巻だった。一直線の道が、まるで地底の世界にまで通じているかのように、際限なく下っていく。それとともに、気温が猛烈に上がっていく。周囲を7000メートル峰、8000メートル峰に囲まれたタクラマカン砂漠の最低地点というと、このトルファン盆地のアイディン湖で、海面下154メートル。死海に次ぐ世界第2位という低さなのである。

 トルファン盆地からは天山山脈主脈の峠を越え、高原地帯を走る。気温がガクーンといっぺんに下がる。雪山のボゴダ峰が見えてくるとウルムチは近い。

 日が暮れたところで、ウルムチに到着。ホータンから2000キロの距離だ。中国側のスタッフのみなさんと何度も握手をかわした。中国側スタッフのみなさんとウルムチ到着を喜びあいながら、ぼくは「タクラマカン砂漠一周」を成しとげた喜びをもかみしめた。

 最初にウルムチに来たときと同じ「華僑賓館」に泊まる。ホテルの部屋に入るなり、すぐさま地図を広げ、もっと、もっと新疆をまわってみたいと思うのだった。

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