賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

カソリの中国旅40年(2)

 ぼくが初めて中国大陸を見たのは今から40年以上も前のことになる。

 1968年4月12日、横浜港からオランダ船の「ルイス号」に友人の前野幹夫君と乗り込んだ。2台のスズキTC250も一緒。カソリ、「アフリカ大陸縦断」を目指しての20歳の旅立ちだ。

「ルイス号」は名古屋、神戸、釜山と寄港し、10日後の4月21日、香港に到着。

 香港には4日間、停泊した。この間で見た中国大陸の風景は今でも目の底に焼きついている。 

 そのときの様子は次ぎのようなもの。

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 北回帰線を越えて南シナ海に入り、「ルイス号」は香港に向かう。水平線のむこうに、かすかに中国大陸が見える。漁をしているのであろう、独特の帆をつけた小舟(ジャンク)がたくさん見える。

 昼食を知らせる鐘の音で目をさます。

 船は香港に近づいていた。九竜(クーロン)や香港島のニョキニョキと空に伸びた高いビルがやたらと目につく。船は沖に停泊した。

 昼食のあと、ランチで九竜に渡った。まずぼくたちが驚いたのは、女の子たちの足だった。ぶかっこうな足ばかり見て20年も育ったぼくたちにとって、スラッと伸びた中国人の女の子たちの足は驚異だった。

 物のない釜山からきたので、香港の豊富な物が、ひときわ目についた。九竜の中心街を歩きまわったところで、いったん船に戻り、夕食のあとは香港島に渡った。5時間も歩き、クイーンズピアから夜中の最終便で船に戻った。そのあとはまばゆいばかりの香港の夜景を見ながら、甲板での酒盛りである。

 次の日は、御前中は九竜の中心街を歩き、午後は歩いて歩いて、歩きまくった。メインストリートのネイザン通りをどこまでも行き、タイポー通り、ランチェ通りと行くと、九竜の町並みや港、景徳飛行場などが、一望のもとに見渡せる高台にくる。そこでは歩き疲れて眠ってしまった。

 頭の上を飛ぶジェット機の爆音で目をさまし、ふたたび歩きはじめ、サンポーコンのスラム街へと下っていく。あたり一面に漂う強烈な臭い。狭い道の両側に続く無数の露店。そこでは野菜、魚、雑貨、生きたニワトリやアヒル、洋服、布、おもちゃ…と、何でも売っている。人、人、人。耳がおかしくなってしまいそうな音、音、音。ぼくはそこに、すでに日本では見られなくなってしまった東洋独特のバイタリティーを見たような気がした。

 のどが乾いたので、露店でパイナップルを食べると、ひときれ5セント(約3円)、麺を食べると、1杯10セント(約6円)といった具合。こんなところで1年ぐらい、住みたいと思ったほどだ。

 その次ぎの日。

 九竜駅から広州行きの九広鉄道で、中国との国境に向かった。9時30分発の12両編成の緑色のジーゼルカー。油麻地(ユマチ)、沙田(シャティン)、大学駅(ユニバーシティーステーション)、大浦(タイポー)カク、大浦マーケット、粉嶺(ファンリン)と通って10時30分、上水(シャンスイ)に着いた。

 ほんとうは国境の駅、羅湖(ローフー)まで行きたかったが許されず、上水で列車を降り、バスに乗った。

 元朗(ユエンロン)行きのバスに乗って途中で降り、そこから歩き、香港領新界と中国を分ける深セン河を見下ろす高台に立った。おだやかな田園風景が広がり、その中に、やさしい感じの山々がいくつも見えた。

 そんな風景をぶち壊すかのように、バリケードが幾重にもなって張りめぐらされていた。

 ぼくは小さい頃から、中央アジアに異常なほどの興味を持っていた。

 ヘディンやスタイン、ヤングハズバンド、大谷探検隊などの中央アジア探検記を目を輝かせ、夢中になって読みふけったものだ。いつしかぼくはチベットタクラマカン砂漠、天山の山々、さらにはトルファンの盆地からゴビ砂漠へと、アジア大陸の奥深い一帯をさまよう自分自身の姿を思い浮かべては、子供心をときめかせていた。

 目の前に広がる中国大陸を見ていると、有刺鉄線を越え、川を越え、はるかかなたのアジア大陸の奥地を目指して、「流浪の旅を続けたい!」という強い衝動にかられるのだった。

(『アフリカよ』1973年・浪漫刊より)

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当時の日記帳に描いた香港(九竜)の町並み