賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

日本食べある記(2)滑川のホタルイカ

 (『市政』1991年2月号 所収)

 富山湾名物のホタルイカを見るために、5月中旬のある日、上野発21時の寝台急行“能登”で、富山湾岸の滑川市に向かった。車中で目を覚ましたのは夜明けで、列車は、ちょうど黒部川の鉄橋を渡るところだった。川上に目をやると、たっぷり雪の残った立山連峰が、夜明けの空を背にして、ポッと明かりが灯るように浮かびあがっていた。

 4時35分、滑川着。さっそく、人通りのまったくない駅前通りを歩き、海岸に出た。 そして、漁港へと急いだ。

 富山湾岸にホタルイカがやってくるのは産卵のためで、4月、5月がホタルイカ漁の最盛期になっている。富山湾岸では、滑川のほかには、新湊、四方、水橋、魚津などでとっている。

 ホタルイカは、胴の長さが7センチほどの小型のイカである。海岸近くを群れをなして押し寄せてくる時に光るので、その名がある。ただし、ホタルのよには点滅しない。激しく動くほど光が強くなるので、浅瀬や網に引き上げられた時に、一段と強く発光する。

 ホタルイカの頭、胴、足には小さな発光器官が数百もあり、それらの中でも目のわきにある5個と、第4番目の足の先にある3個がもっとも大きいという。ふだんは、北海道や本州沿岸の水深200~600メートルほどの深海に生息しているが、産卵期になると海岸に近寄ってくる。

 5時、漁港に着くと、ちょうどうまいぐあいに、一艘の漁船がホタルイカ漁から戻ってきた。港で待ちかまえる業者に、とれたばかりのホタルイカを手渡す。それ以外にとれたスズキやヒラメ、コダイ、タチウオなどは、船に乗っていた漁師さん全員に、平等に分配された。そのあとで、船小屋の中で赤々と燃えるストーブを囲み、雑談が始まった。

 私ものその輪の中に入れてもらった。全部で12人の漁師さん。年配の人が多いが、海で鍛えられた人たちばかりなので、誰もが若々しい。

 ホタルイカ漁について聞いてみた。

 ホタルイカは“ホタルイカ定置”と呼ばれる、それ専用の定置網でとるという。

「ホタルイカについて、もっと知りたいのなら、ウチに来なさい」

 と船の持ち主の漁師さんにいわれ、あつかましくも、おじゃました。

「まずは、腹ごしらえだ。話はそれから」

 奥さんに朝食を急がせる。

 食卓には、ホタルイカ料理がならんだ。

 ホタルイカの刺し身に桜煮、それと佃煮。ビールの栓が抜かれ、とれたばかりのホタルイカを肴に、朝から酒宴の様相となった。

 刺し身は伊万里焼きの皿に、手を抜きとって切り開いた身が同心円状に並べられ、中央には目玉のついたままの手が盛ってある。このホタルイカの手が、特別にうまい。このあたりの漁師さんは“手の刺身”と呼んでいる。函館名物の“イカソーメン”に似た味わいで、ショウガ醤油につけてスルスルッと食べるのだが、シコシコした歯触りとツルッとした喉の通りがなんともいえない。

 桜煮は、沸騰した湯の中に塩を入れ、とれたばかりのホタルイカを入れて茹でたものである。

「あんまり数を入れないで、湯に浮かんだホタルイカが泳げるぐらいにするのがコツなんですよ。強火でさっと茹であげ、湯が汚れてきたらとりかえます」

 料理自慢の奥さんが、そう、秘訣を教えてくれた。

 桜煮の名前のとおり、桜色にふっくらと茹であがったホタルイカを口にふくむと、やわらかな卵がプチュッと舌の上に飛び出してくる。

 ちなみに富山湾岸に近寄ってくるホタルイカは、その大半がメスだという。定置網にかかるのも当然メスで、それだから、桜煮のホタルイカも卵をもったメスということになる。

 刺し身にするときは、卵を取り除く。

 さらに、もうひとつ、佃煮も奥さんの手作り。店頭に出ているホタルイカの佃煮は、いったん茹でたものを干し、使う段になって水に戻す。ところが漁家自家製の佃煮は、生のホタルイカを使うのだ。

 まず、醤油、砂糖、水飴を煮たてた佃煮のもとをつくる。もとは、醤油1斗(約18リットル)に砂糖5キロ、水飴7・5キロの割合だという。それを煮たてて、7割ぐらいにしてしまう。うまい佃煮のつくり方の秘訣は、このもとをなくさないようにし、さきほどの割合で、醤油、砂糖、水飴をつぎたしていくことだという。

 佃煮のもとの中に、とれたばかりのホタルイカを入れ、中火で一時間ほど煮たてる。こうして出来上がった佃煮は、かたくもなく、やわらかくもなく、とくに酒の肴にはぴったりの味となる。

 最後に、ご飯と味噌汁が出た。味噌汁は、ホタルイカの定置網にかかったミスとヒラメ、それに青菜。おかずはホタルイカの塩辛。あたたかなご飯に、ホタルイカの塩辛という取り合わせは、ことのほか食がすすむ。

 この塩辛づくりだけは、奥さんにまかせられないという。自分でつくった塩辛でないと、どうしても好みの味がでないという。

 ホタルイカの塩辛のつくり方は、次のようなものだ。

 口広の容器に、とれたばかりのホタルイカを洗わないでそのまま入れ、塩を入れてかきまぜる。塩の割合は、50キロのホタルイカに対して4キロ。つまり、8%の塩ということになる。

 塩をしたホタルイカを毎日、何回もかきまぜる。

「塩辛づくりは、怠けたらダメです」

 とのことだ。

 すこしでも手を抜くと、塩辛の味は落ちるし、色も変わってしまうという。

 2、3日すると水気が上がってくる、1週間あまり経ったところで、水気を捨てる。この時に、フルイを使いフルイに押しつけるようにして目玉を取り除く。最初から目玉をとったホタルイカを塩漬けにすると、ペチャンとした塩辛になってしまい、それこそ食べる気もしないものになってしまうという。

 こうして10日も塩漬けにすると、食べごろになる。

 塩を強くすれば半年でも一年でも保存できるが、そのような塩辛は地元の漁師さんにとってはつくりたいとも、食べたいとも思わないような塩辛。海の幸に密着した、なんともうらやましいかぎりの漁民の食生活なのである。

 富山湾の海の幸をふんだんに使った朝食をごちそうになったあと、ホタルイカ漁について、いろいろ聞いた。定置網についても聞いた。

 が、漁師さんに、

「耳で聞くよりも、自分の目で見るのが一番だよ」

 といわれ、さらに翌朝4時に港に来なさいといわれた。

 ホタルイカ漁につれていってくれるというのだ。なんとも、ありがたい話ではないか。

 その日は一日、プラプラと滑川の町を歩き回り、駅近くに宿をとったあと、翌朝、3時に起きた。まだ暗い、海岸沿いの道を歩き、漁港に向かった。

 沿岸近くの定置網を仕掛けているあたりに、わずかだが明るさが漂っている。ホタルイカの発する光であろうか。

 3時半に漁港前の船小屋に行くと、すでにストーブの火が焚かれ、何人かの人たちが、ストーブを囲んで雑談していた。時間が経つにつれて一人、また一人とやってくる。私は漁師さんたちのかわす雑談にそれとなしに耳を傾けていた。

 話題といえば、前日の大相撲やプロ野球の結果、隣近所のうわさ話、新湊、四方、水橋、魚津などの他漁場でのホタルイカ漁の状況といったところである。おもしろいところでは、ふだんではあまりとれない若狭や越前の漁港にホタルイカがあがり、真夜中のトラック便で滑川の加工業者のもとに運ばれたといった話も聞いた。

 4時を過ぎ、うすぼんやりと夜が明けかかってきたころ、いよいよ出港だ!

 エンジンつきの船が、手漕ぎの船を1艘、引っぱっていく。手漕ぎの船には、3人が乗っている。総勢12人。日本の高齢化社会を象徴するかのようなホタルイカ漁で、大半の漁師さんが70歳以上の高齢者。だが、誰一人をとってみても70歳を超えているとは思えないほど若々しい。こうして毎日早起きをし、自信を持って仕事をし、たっぷりと潮風に吹かれ、そして新鮮な海の幸を口にしているからこそいつまでも若々しいのだろう。

 定置網が仕掛けられた場所は、海から300メートルほどの沖合。2艘の船で、定置網をたぐっていく。ホタルイカは網に触れるたびに、神秘的な青白い光を放った。

 最初の定置網をあげ終わり、二番目の網をあげたころ、すっかり夜が明けた。漁獲は2統(網)で、全部で5ケース(1ケースが約50キロ)。ホタルイカとそれ以外の魚にすばやく分ける。とれた魚の中で、コハダは捨てた。

 私がもったいなあ…という顔をすると、すかさず、

「このあたりの漁師は、コハダは食べないんだよ。兄さん、東京ではスシにするそうだね」

 といわれてしまった。

 船上から眺める滑川の町越しの、残雪の立山連峰がすばらしかった。主峰の立山こそ、その前に連なる山々に隠れて見えなかったが、剣岳や薬師岳など、高峰群が一望のもとにながめられた。真正面の朝日岳の雪渓が、もうそろそろタイのような形になるという。

 すると、タイのとれる季節になるという。

 漁港に戻ってくる途中で、朝日が昇った。

 富山・長野県境の白馬岳の右肩から昇った朝日は富山湾を染め、立山連峰の残雪を染め、そして船上の漁師さんたち一人一人の顔をも赤々と染めた。

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絶対的かつ強力に管理人コメント:

コハダ捨てるなっ!(涙)