賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

海道を行く(2) 関東編

 (『ツーリングGO!GO!』2005年6月号 所収)

 3月14日午前10時、東京・日本橋に立った。昨日までの曇天とはうってかわって天気は快晴。さすが「晴れ男、カソリ」。旅の相棒となるホンダCB1300SBのアクセルを軽くひとひねりして第1京浜(R15)を走り出す。これから関東の海道を走るのだ。新たな地平を切り開くような気分で背筋がゾクゾクッとしてくる。

 第1京浜で多摩川を渡って神奈川県に入り、横浜へ。横浜に到着するとR15→R1→R16経由でJR桜木町駅前からR133に入る。横浜港大桟橋入口までのミニ国道でその距離はわずかに1・4キロ。この道はメチャクチャ、なつかしい。

 大学受験を終えた18歳のカソリ、意気揚々と桜木町駅に降り立ち、大桟橋まで歩いた。バイクでの「アフリカ大陸縦断」を目指しての最初の資金稼ぎが横浜港だった。「沖仲仕」は金になると聞いてやってきた。それから何日か、1泊150円の安宿に泊まり、ハシケに乗って沖合に停泊している貨物船の荷物の積み降ろしの仕事をした。給料は日給で1日1260円だった。

 山下公園で横浜港を眺め、しばし18歳の頃の自分を振り返ったところで中華街へ。そこでは揚げパンの油條とチマキ、ゴマ揚げ団子を食べ、さらに粥専門店で「蝦仁粥」を食べた。とろっとした白飯の粥の中に何匹かの小エビが入っている。粥の上には香菜がのっている。中国料理に香菜は欠かせない。香菜の香りをかぐと、一瞬、中国を旅しているかのような気分になる。

 横浜からR16で三浦半島に入り観音崎へ。そこからは県道で浦賀から久里浜へ。この一帯は「黒船」がやってきた「日本開国」の舞台。ペリー上陸碑の立つペリー公園の裏手にある「あすか旅館」に泊まり、夕暮れの久里浜海岸をプラプラ歩いた。港には金谷港行きの東京湾フェリーと大分港行きの大型フェリーが停泊していた。

 フェリーターミナルの待合室をのぞいたあと、港近くの食堂「みやび」で夕食。マグロ丼(900円)を食べた。丼飯の上には味つきマグロのほかにタコがのっている。店のオバチャンは「久里浜産のタコはね、とってもおいしいのよ!」と自慢した。なるほど。しっかりとしたかみごたえだ。メカブ、ワカメの茎、ワカメの味噌汁とワカメの3点セットもついている。このワカメも久里浜産のものだという。

 翌日は三浦半島南端の剱崎、城ヶ島に立ち寄り、三浦半島の西海岸を北上。三浦半島の最高峰、大楠山山頂の展望台に立ったあと、海岸近くの大楠温泉の湯に入る。湯から上がり、大広間で「エビフライライス」の昼食を食べていると、隣りの年配の人に声をかけられた。会社社長の金子晴行さんという人で、「義経北行伝説」にたいへんな興味を持っている。その足跡も追っている。ぼくも同じようなことをやったことがあるので、話がおおいにはずんだ。

 金子さんは「義経は蝦夷から大陸に渡ったんですよ。そしてチンギスハーンになったのです。私の長年の研究からいって、これは間違いないことです」と断言するのだった。いやー、温泉に入ったおかげで、おもいもよらない人に出会った。

「三浦半島一周」を終えると、湯河原温泉に泊まり、つづいて「伊豆半島一周」。伊豆半島の「岬めぐり」をしながら松崎温泉、戸田温泉に泊まり、沼津に出た。その間では14岬に立った。

 沼津からは富士山を見ながら駿河湾沿いの旧東海道を行く。由比では由比本陣跡近くの 「井筒屋」で「由比定食」(1575円)を食べた。桜えびのかき揚げ(大、2個)と桜えびの佃煮つき。澄まし汁にもご飯にも、桜えびが入っている。

 桜えび三昧の食事に大満足し、旧東海道で薩埵(さった)峠を登っていく。CB1300SBではちょっときつい峠道。道幅は狭く、急勾配、急カーブの峠道だ。峠からの眺望は抜群にいい。東名高速とR1を見下ろし、富士山を眺める。駿河湾の対岸には伊豆半島の山々。標高90mの峠だが、海のすぐそばなので90m以上の高さを感じる。

 薩埵峠を下った興津からはR1→R149→R150で三保の松原へ。突端の吹合岬から海越しに富士山を見た。さらに「清水日本平パークウエイ」(無料)で登った日本平山頂の展望台からも富士山を見た。さすが富士山、どこから見ても「日本一」の山。すごくよかったのが、途中で寄ったJR東海道線の富士駅前から見た富士山。中心街の通りの正面に見える富士山は異様なくらいに大きかった。

「関東の海道を行く」(西編)もいよいよ最後。R150から久能山東照宮に上り、静岡から焼津へとつづく長い海岸線を見下ろした。夕日に染まった安倍川の河口を見たあと、静岡ICから東名高速で東京へ。富士川SAの手前あたりから見る夕暮れの富士山がまたよかった。こうして21時に東京に戻ったが、「西編」の全行程は807キロだった。

                 ◇

 3月19日午前6時、東京・日本橋を出発。「関東の海道を行く」(東編)の開始だ。ホンダCB1300SBを走らせ、千葉街道(R14)で千葉へ。千葉からはR16で富津岬へ。この富津岬を皮切りに、明鐘岬、大房岬、洲崎、野島崎と房総半島の「岬めぐり」をしていく。

 外房海岸を走るR128に合流し、鴨川市の誕生寺のある小湊を過ぎると勝浦市に入る。鴨川・勝浦の市境が安房・上総の国境。勝浦市の興津を過ぎたところが鵜原だ。国道には「鵜原」の表示がないので、気がつかないまま、通り過ぎてしまうようなところ。鵜原に着くと、鵜原海岸や鵜原漁港を見てまわり、理想郷の毛戸岬から太平洋を眺めた。

 この鵜原こそ、「生涯旅人!」カソリの原点なのだ。大学受験を翌春に控えた高校3年の夏休み、ぼくは前野幹夫君ら友人たち3人とテントや食料をゴッソリ持って鵜原海岸に向かった。ぼくたちは毎夏、キャンプをした。1年のときが伊豆半島の大瀬崎、2年のときが御前崎に近い相良海岸だった。

 鵜原海岸に向かう外房線の車内では、ヒョンな拍子から「アフリカに行きたい!」という話になった。鵜原海岸でも、帰りの車中でもアフリカの話で夢中になった。ぼくたちは東京に戻るとすぐさま、バイクでの「アフリカ大陸縦断計画」をつくり上げたのだ。それから3年後の春、メンバーは2人に減ったが、ぼくと前野君は横浜港からオランダ船の「ルイス号」にスズキTC250とともに乗り込み、アフリカへと旅立った。20歳の春の旅立ちだった。

 それ以降、何度か、鵜原には来ている。30代になって初めて「日本一周」したが、そのときも、第1夜目は鵜原漁港の岸壁で野宿した。「鵜原」に来るたびに胸がキューンとしてくるのだ。今回も鵜原海岸を見ていると、あっというまに過ぎ去っていった30数年間のツーリングの数々がまるで走馬灯の絵のようにぼくの目の前を駆けめぐっていった。

 鵜原では民宿「甚五郎」に泊まった。夕食がすごかった。マグロ、カツオ、カンパチの刺し身、キンメの鍋、イワシの酢の物、サバの煮つけ、アジのフライ、エビとサザエ…と、まさに「海の幸三昧」の夕食。民宿のご夫妻もやさしい人。これでますます鵜原は忘れられないところになった。

 翌日も房総半島の「岬めぐり」。勝浦の八幡岬、大原の八幡岬、太東崎、刑部崎とめぐり、最後が犬吠崎だった。銚子から利根川を渡って茨城県に入ったが、この先、日立よりも北の鵜ノ岬まで岬らしい岬はない。

 鹿島神宮に参拝したあとR51で大洗へ。夕暮れの大洗港に到着。フェリー港には18時30分発の苫小牧行きフェリー「へすていあ」が停泊していた。フェリーに向かって「待ってろよ、今度は乗るからな!」と叫んでやった。

 大洗港は無性に北海道への夢をかきたてられるところだ。大洗港近くの「潮騒の湯」(入浴料1000円 10時~21時)に入り、湯から上がると「あんこう鍋うどん」(900円)を食べた。アンキモが上にのっている。アンコウを先に食べ、そのあとで味のしみ込んだうどんを食べた。それを最後にR51から水戸大洗ICで東水戸道路に入り、常磐道で東京に戻った。東京着は22時。「関東の海道を行く」(東編)の全行程は630キロだった。