賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

③「50㏄バイク日本一周」(1989年)の「ルミちゃん」

 1989年10月14日、沖縄の石垣島から福山海運の「フェリーよなくに」で与那国島に渡った。この「フェリーよなくに」で3人のライダーに出会った。ホンダXR600の「マサワン」、カワサキKLR250の「ヤマサン」、それとホンダVT250Zの「ルミちゃん」だ。「ルミちゃん」はスマートでチャーミングな看護婦さん。目がやさしくて愛くるしい。仕事をやめて日本一周に旅立ち、すでに4ヵ月、2万キロ以上走っている。「マサワン」、「ヤマサン」も日本一周中だ。

 石垣港を発ってから4時間後、「フェリーよなくに」は与那国島の久部良港に到着した。目の前にそそり立つ断崖の突端の岬が日本最西端の西(いり)崎。下船するとさっそく我ら「日本一周組」の4人は西崎に行った。岬には「日本国最西端之地」碑が立ち、灯台と展望台があった。断崖の先端に立ち、目をこらしたが、台湾は見えなかった。

 石垣島で出会った与那国島出身の人は、「新高山(台湾の最高峰、玉山。標高3997m)がこんなに大きく見えますよ」と、両手を広げた。その人にいわせれば台湾は島ではないという。4000メートル近い台湾山脈の峰々が水平線上にズラズラッと一列に連なって見え、まさに大陸そのものだという。

「なんとしても、ここから台湾を見よう!」ということで我ら「日本一周組」の意見は一致し、夕方の再会を約束して別れた。

 ぼくはスズキ・ハスラー50を走らせ、島の反対側、東端の東(あがり)崎まで行った。距離は10キロほど。東崎は西崎以上の断崖で、海に突き出た細長い岬は牧場になっている。牛のほかに与那国島特産の小柄な与那国馬が草を食み、たてがみを風になびかせていた。

 夕焼けに染まる台湾を見ようと、西崎に戻る。「ルミちゃん」らもすでに戻っていた。水平線上には雲が多く、夕日はその中に隠れてしまった。その直後、ほんの数分間だったが、台湾の島影が薄暮の中に浮かび上がって見えた。その夜は満月。我々は月夜の野宿。「ルミちゃん」が酒のつまみをつくってくれる。全員で与那国島にしかない度数60度の泡盛「どなん」を飲みながら夜中まで大騒ぎした。一年に一度の祭りの夜…、そんな気分だった。

 翌日は与那国島を一周し、夕方、西崎に戻った。我ら「日本一周組」は連夜の野宿。この日は「ルミちゃん」らがでかした。泡盛「舞富名」の工場を見学し、なんと6本もの泡盛をもらって帰ってきた。十六夜の、満月と全くかわらない月明かりのもとで、連夜の酒宴になった。同じことをやっている者同士、話題にはこと欠かない。さらに美人の「ルミちゃん」がいるものだから、おおいに盛り上がり、なんと明け方の4時過ぎまで飲みつづけ、4本の泡盛を空にした。

 我々はその日、「フェリーよなぐに」で石垣島に戻った。

 ぼくはそのあと波照間島をまわり、ふたたび石垣島に戻った。ひと晩、泊まろうと米原キャンプ場に行くと、「ルミちゃん」も「マサワン」も「ヤマサン」もいた。つい2、3日前に別れたばかりなのに、「ヤアー、しばらくぶり。どう、元気?」などとおどけあって、再会を喜びあった。

 その夜は米原キャンプ場の中央炊事棟を宴会場にし、滞在しているキャンパー全員が集まり、大宴会となった。10人ほどだったが、全員がライダーで、全員が日本一周中だった。那覇からのフェリー「飛龍3」で一緒だった「赤池クン」と「細川クン」、すし屋をやめて日本一周に出た「イタサン」、北海道から「ルミちゃん」を追いかけてきたという「アキラクン」、写植(写真植字)のオペレーターに見切りをつけて旅立った人…。ここで「越冬するんだ」という人もいた。「イタサン」の大盤振る舞いで一升びんを何本も差し入れてもらったので、大宴会はまたしても夜明けまでつづいた。「ルミちゃん」は最後まで付きあってくれた。

 その日、米原キャンプ場の気のいい面々に別れを告げ、「飛龍3」で那覇港へ。石垣港の岸壁には「ルミちゃん」、「マサワン」、「ヤマサン」が見送りに来てくれた。「飛龍3」は「ボーッ」と汽笛を鳴らし離岸していく。「ルミちゃん」には「愛してるよ~!」と大声で叫び、投げキスを送る。「ルミちゃん」は平気な顔して「私もよ~!」といって投げキスを送り返すのだった。岸壁で手を振りつづけている「ルミちゃん」らの姿はあっというまに小さくなり、そして豆粒のようになった。

 その後「ルミちゃん」は「アキラクン」と結婚したが、「美人薄命」のたとえ通り、若くして病気で亡くなった…。