賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

カソリの新・峠越え:神奈川(9)志田峠(しだとうげ)

 三増峠(神奈川-8参照)を越えたあと、愛川町の半原に戻ってきた。半原を拠点にして、ひきつづいて志田峠を越えるのだ。町中のコンビニで缶コーヒーを飲み、ひと息ついたところで出発。スズキDR-Z400Sを走らせ、中津川の河畔から急坂を登り、河岸段丘の台地上に出る。そこは開けた農地。耕した畑が広がっている。そのあたりが志田。志田峠は峠下の地名に由来している。

 三増峠から志田峠にかけての一帯は甲州の武田軍と小田原の北条軍が激突した戦国時代でも屈指の古戦場。県道54号の三増に通じる道の左側には、「三増合戦場」の大きな石碑が建っている。武田軍2万、北条軍2万の大軍同士が激突し、4000人を超える死者が出たという。石碑に並んで三増合戦での両軍の詳細な配置図と、「三増合戦のあらまし」が書かれた案内板が立っている。

 それには次のように書かれている。

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 永禄12年(1569年)10月、甲斐(山梨県)の武田信玄は2万の将兵をしたがえ、小田原城北条氏康(北条五代の三代目)らを攻め、その帰り道に三増峠をえらんだ。

 これを察した氏康は息子の氏照、氏邦、娘の夫綱成らをはじめとする2万の将兵で三増峠で迎え討つことにした。ところが武田軍の近づくのをみた北条軍は、半原の台地上に移り態勢をととのえようとした。信玄はその間に三増峠のふもと桶尻の高地に自ら進み出て、その左右に有力な将兵を手配りし、家来の小幡信定を津久井の長竹に行かせて、津久井城にいる北条方の動きを押さえ、また、山県昌景の一隊を韮尾根に置いて、いつでも参戦できるようにした。

 北条方はそれに方々から攻めかけたのでたちまち激戦となった。そのとき山県の一隊は志田峠を越え、北条軍の後ろから挟み打ちをかけたので、北条軍は総崩れとなって負けてしまった。この合戦中、武田方の大将浅利信種は北条軍の鉄砲にうたれて戦死した。

 北条氏康、氏政の親子は、助けの兵を連れて荻野(厚木市)まで駆けつけてきたが、すでに味方が負けてしまったことを知り、空しく帰っていった。信玄は勝ち戦となるやすぐに兵をまとめて反畑(相模湖町)まで引き揚げ、勝利を祝うとともに、敵味方の戦死者の霊をなぐさめる式をとりおこない、甲府へと引き上げたという。

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 三増合戦は新田次郎の『武田信玄』(文春文庫)にも詳しく書かれている。

 志田峠は「三増合戦場」碑のわきから入っていく。「東名厚木カントリー倶楽部」の前を通る。このゴルフ場内に三増合戦の武田信玄が大将旗を立てたという「旗立松」がある。それを見たくてゴルフ場内に入り、三増峠と志田峠の間の中峠へと登っていく。そこに「旗立松」の碑が建っている。

 信玄が大将旗を掲げたという「旗立松」は大正12年(1923年)に失火で枯れてしまったとのことで、「旗立松二世」が大きくなりはじめている。中峠からの眺めは雄大で相模の原を一望し、丹沢の山並みを眺める。この風景を見ていると、天下を取ろうとした武田信玄の気分にも浸れるというものだ。

「東名厚木カントリー倶楽部」を過ぎると、老人ホームの前を通り、志田峠へのダートの突入。道幅は狭く、路面はけっこう荒れているのでおもしろく走れる。1キロほどのダートを登りつめると標高310メートルの志田峠だ。そこには木製のテーブル。バイクを停めて峠でひと休み。半原のコンビニで買ったペットボトルのお茶を飲んだ。志田峠は今でこそ忘れ去られたような峠だが、かつては厚木と津久井を結ぶ重要な峠で、その重要度は三増峠以上のものだったという。

 三増峠は愛川町と旧津久井町(現相模原市)の境だが、志田峠は旧津久井町に入ったところにある。峠を下っていくと朝日寺の前に出るが、そこまでの0・4キロがダート。志田峠のダートは合計1・4キロ。わずか1・4キロでも、こうしてバイクで走れるダートの峠道が残っているのはものすごくうれしいことだ。

 長い石段を登り、朝日寺に参拝したあと、桜並木を走り抜けて国道412号に出た。そのあたりが「三増合戦」で武田方の山県昌景軍が布陣した韮尾根。国道412号もその地点が名無しの峠になっている。韮尾根を下り、ふたたび半原へ。そして厚木経由で伊勢原に戻った。

「三増合戦」の碑
「三増合戦」の碑

古戦場から眺める丹沢の山並み
古戦場から眺める丹沢の山並み

三増合戦の戦死者の供養塔
三増合戦の戦死者の供養塔

志田峠
志田峠