賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(1)

 早いもので、まもなく東日本大震災から8年目の3・11を迎える。この日付に合わせて、大津波に襲われた東北太平洋岸の全域を見ようと、毎年、「鵜ノ子岬→尻屋崎」をバイクで走っている。鵜ノ子岬は東北太平洋岸最南端の岬。尻屋崎は東北太平洋岸最北端の岬。

 8年目の3・11に出発する前に、ここまでの「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」を振り返ってみよう。

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■2012年3月10日(土)雨のち曇 「東京→いわき」280キロ

東日本大震災」1年後の東北太平洋岸を見ようと、2012年3月10日10時、東京・新宿の「スズキワールド新宿」を出発。バイクはスズキのニューモデルのV-ストローム650ABS。「スズキワールド新宿」の高橋店長に見送られてカソリ、山手通りを走り出した。

 すぐに首都高に入り、三郷の料金所からは常磐道北へ。V-ストロームの高速性能は抜群。アクセルを軽くひねるだけでキュィーーーンという心地よいエンジン音とともに一気に加速する。

 いわき勿来ICで常磐道を降りると、東北・太平洋岸最南端の鵜ノ子岬へ。この岬を境にして南の関東側は平潟漁港、北の東北側は勿来漁港になっている。

 勿来漁港の岸壁にV-ストロームを停めると、すぐにヤマハのセローに乗った渡辺哲さんがやってきた。渡辺さんのセローはすでに13万キロを超えている。渡辺さんもセローもツワモノだ。渡辺さんは今日一日、同行してくれるという。

 渡辺さんの実家は楢葉町。爆発事故を起こした東電福島第1原発の20キロ圏内ということで、いまだ自宅には戻れない。すでに大津波から1年もたっているというのに…。そんな大変な思いをしているのだが、そこはライダー特有の明るさとでもいおうか、渡辺さんと話しているとかえって元気をもらってしまうほどなのだ。

 鵜ノ子岬を出発点にして渡辺さんとの浜通り福島県の太平洋側)の旅がはじまった。 東北・太平洋岸最南端の鵜ノ子岬を出発。カソリのV-ストロームが先頭を走り、渡辺さんのセローが後を走る。

 カソリ&渡辺の「浜通り旅」の始まりだ。

 国道6号を走り、小名浜に向かう。震災2ヵ月後に走った時は段差が連続した国道6号だが、今ではすっかり道がよくなり、走りやすくなっている。

 国道6号から小名浜に向かう道も大半が新たに舗装され、段差や亀裂、陥没箇所がなくなっている。震災から1年、道路だけ見れば完全に復興しているかのように見える。

 信号もすべて点灯している。震災後、しばらくは信号の消えた交差点で各地からやってきた警察官が交通整理していた。そんな光景がなつかしく思い出される。

 いわき市最大の漁港、小名浜には活気がわずかながらも戻っていた。東北最大の水族館「アクアマリン」は奇跡の復活をとげた。かつての人気スポット「いわき・ら・ら・ミュウ」も再開し、そこそこの人を集めて海産物を売っていた。「市場食堂」も店舗を新しくして営業を再開。そこで「マグロの漬け丼」(1350円)を食べた。

 と、ここまではよかったのだが…。

 小名浜漁港の岸壁で漁師さんたちの話を聞いたとたんに気持ちは暗くなる。魚市場も再開しているとのことだが、水揚げされる魚はほとんどない状態だという。「小名浜」というだけで、まったく買い手がつかないというのだ。金華山沖で獲ったカツオを小名浜漁港で水揚げすると、「キロ100円だよ…」といって漁師さんは嘆いた。福島県沖で獲れたのではないのに…。東電福島第一原発原発事故の風評被害の大きさに、いいようのない怒りがこみあげてくる。

 小名浜からは三崎、竜ヶ崎、合磯岬、塩屋崎…と4、5キロの間隔で連続する岬をめぐる。それらの岬は漁港とセットになっている。竜ヶ崎の中之作漁港、合磯岬の江名漁港、塩屋崎の豊間漁港…と。それらいわき市内の漁港はどこも閑散としていた。漁は再開できるような状態なのだが、風評被害で漁師さんたちは漁に出て魚を獲っても、水揚げできないのだ。原発事故の影響の大きさを目の当たりにするような光景の連続だ。

 塩屋崎の南側は豊間、北側は薄磯で、ともに大津波に襲われ集落は全滅した。いわき市内では最も甚大な被害を受けたところで、300人を超える人たちが亡くなった。

 しかしすでに瓦礫は撤去(集積した瓦礫の大きな山は残っている)され、家々の土台が残っているだけで、一面の広野にしか見えない。これが震災後1年の風化といものなのだろう、あの大津波に襲われた直後の生々しさ、すさまじいばかりの光景は、まるで幻であったかのようにさえ思えた。

 豊間と薄磯の両集落は全滅したが、岬の灯台の下に立つ美空ひばりの『みだれ髪』の歌碑は無傷で残った。ここはまさに奇跡のスポット。

「暗らや涯なや塩屋の岬 見えぬ心を照らしておくれ ひとりぽっちにしないでおくれ」の歌碑は大津波に相通じるようなものがあり、思わず涙ぐんでしまう。

 この奇跡のスポットをひと目見ようと、観光バスやマイクロバスが次々にやってくる。大津波の被災地を巡る観光バスを数多く見るようになったのも、震災後1年という時間を強く感じさせた。

 塩屋崎の灯台は高さ50メートルほどの海食崖の断崖上に立っているが、いまだに立入禁止になっていた。

 塩屋崎からは最後の岬、富神崎を通り、舞子浜を北上。松林の中の県道382号を走る。県道382号は夏井川にかかる橋に大きな段差ができ、長らくその区間が通行止めになっていたが、今は通行可。海岸には大きな瓦礫の山がいくつもできている。

「(この瓦礫の処理が)一日も早く終わりますように!」

 と願わずにはいられないような光景だ。

 四倉で国道6号と合流し、波立海岸へ。短いトンネルで抜け出たところが岬。波立岬といってもいいようなところなのだが、岬に名前はついていない。国道沿いの「波立食堂」は大津波に押しつぶされたが、反対側の「波立薬師」は無傷で残った。それ以上に驚かされるのは岬の岩礁に立つ赤い鳥居が残ったことだ。なぜ、どうして…といいたくなるが、鳥居には何か目に見えない力があるのだろうか。それとも鳥居の形に何か秘密があるのだろうか。今回の大津波の被災地では、いくつもの鳥居が同じようにして残った。

 波立海岸から久之浜へ。町並みは壊滅状態。ここでは大津波に襲われ、それに追い討ちをかけるように大火に見舞われた。その中にあって秋葉神社(稲荷神社)だけが残った。荒野と化した被災地にポツンと残った神社。ここでもまたしても、「なぜ、どうして?」と声が出てしまう。秋葉神社は火除けの神だが、まるでそれを証明するかのように、大津波から残っただけでなく、大火も秋葉神社の手前で止まっているのだ。これはもう「神の成せる業」としかいいようがない。

 国道6号を北上。いわき市から広野町に入り、広野町楢葉町の町境まで行った。

 そこが爆発事故を起こした東電福島第1原発の20キロ圏で、警察の車両が国道を封鎖し、一般車両は通行止になっている。同行の渡辺さんの家はここからすぐのところにあるのだが、行くことはできない。

 この東電福島第1原発の20キロ圏を折り返し地点にし、国道6号を戻っていく。

 久之浜では小学校の校庭の一角にできた仮設の商店街に立ち寄った。そこの「からすや食堂」で夕食にする。ラーメンライス&餃子を食べた。ラーメンも餃子もじつにうまかった。この店は夫婦でやっている。もともとの店は久之浜の町中で、秋葉神社の近くにあったという。2人も秋葉神社が残ったのは不思議だといっている。我々が最後の客で、2人は店の電気を消すと車で仮設住宅のある勿来に向かっていった。

 久之浜から四倉に戻り、今晩の宿、四倉舞子温泉の「よこ川荘」に到着。温泉に入ったあと、渡辺さんと大広間でビールを飲んだ。

「よこ川荘」は海岸近くの宿で、大津波をまともに受けた。震災直後の姿を見た渡辺さんは、「よこ川荘はもう無理ですよ…」と、わざわざ電話をくれたほど。それが全国からやってきたボランティアの支援もあって、おかみさんは見事に宿を再開させた。

「大広間の50畳もの畳を全部、私が運び出したのよ!」

 というおかみさんの話は今や伝説だ。

 そのおかみさんは、「これ、食べなさい」といってマグロやカツオ、ホタテ、タコの刺身を持ってきてくれた。それを肴に渡辺さんとしこたま飲んだ。というよりも飲まずにはいられないような気分。復興からは、はるかに遠い震災1年後の浜通りだった。