賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

東アジア走破行(19)環日本海ツーリング(4)

 ハバロフスクに到着したのは2011年8月13日。翌8月14日はハバロフスクに滞在した。ポリッジ、ピラフ、ヌードル、ソーセージ、ハム、チーズ、スープの朝食を食べ、「ホテルインツーリスト」を出発点にして、その周辺を歩いてまわった。川岸の展望台に立つと、悠然と流れるアムール川を見下ろす。対岸に渡る渡船を見る。遊歩道が川岸に長くつづいているのが見える。

 展望台にはムラビヨフ・アムールスキーの銅像が建っている。ムラビヨフ・アムールスキーは東シベリア総督として、1858年、清国との間にアイグン条約を結び、アムール川左岸をロシア領土とした。このあたり一帯の公園はムラビヨフ・アムールスキー公園と呼ばれ、百貨店などが建ち並ぶハバロフスク市内の最も大きな目抜き通りも、ムラビヨフ・アムールスキー通りと呼ばれている。

 ムラビヨフ・アムールスキーは1809年、サンクトペテルブルグに生まれ、1847年に東シベリア総督に任命された。ロシアと清国の間で結ばれたアイグン条約は、アムール川をロシアと清の国境であるとした。ロシアの得た新領土はアムール川左岸の一帯(外満州)の広大なエリアで、プリアムーリエ(現在のアムール州)、および現在のハバロフスク地方の大部分を含んでいる。この功績でムラビヨフは「アムールスキー伯爵(アムール川伯爵)」の称号を得た。

 1860年の北京条約によってアイグン条約は確認されたが、ロシアはさらにその時、より多くの領土(ウスリー地方と沿海州の南部)を獲得した(分捕った)。中国ではいまだに「このエリアは中国固有の領土」といっている。まあそれはさて領土欲の権化のような人物が尊敬されるのは、なにもロシアに限ったことではない。それは世界共通のことなのである。

 ところで「アイグン条約」は中国・黒龍江省の「愛琿」の地名に由来している。愛琿は中露国境を流れる黒龍江右岸の町。古くからの河川交通の要衝の地で、黒龍江を通して各地とつながっていた。17世紀後半、清朝はロシアの侵入を防ぐため、愛琿に築城。この地を対ロシア交渉の拠点とした。アイグン条約は1858年に結ばれた条約だが、それより150年以上も前の1689年に、清朝はロシアと「ネルチンスク条約」を締結した。この条約はロシアのチタに近いネルチンスクで締結された条約で、これによって両国の国境線の一部が確定。「アイグン条約」はそれにつづくものだ。

 1858年、ロシア・東シベリア総督のムラビエフはロシアの軍事的な威嚇の下で、ロシア有利の国境画定のアイグン条約を結び、アムール川黒龍江)の右岸が中国領、左岸がロシア領とした。さらにウスリー川から日本海に至る一帯を両国の共有地にした。

 アイグン条約締結2年後の1860年、北京条約によってアイグン条約は確認され、ロシアは両国の共有地としたウスリー川から日本海に至る一帯を一方的にロシア領にした。「泥棒ロシア」としかいいようがない領土の略奪。衰退した清朝はロシアの餌食になった。愛琿のその後だが、義和団事件(1899年~1901年)の時にロシア軍に侵攻されて町は壊滅。ドサクサにまぎれて侵攻するのはロシアの昔からの得意技。常套手段といっていい。それ以降、この地方の中心は黒河の町に移った。黒龍江アムール川)をはさんで黒河の対岸はロシア・アムール州の州都ブラゴベシチェンスクになる。

 2004年の「旧満州走破行」ではハルビンから小興安嶺山脈を越えて黒河に行き、さらに黒龍江沿いにバイクを走らせ愛琿まで行った。愛琿では「愛琿歴史陳列館」を見学したが、そこではネルチンスク条約からアイグン条約、北京条約へと、清国の領土がロシアによってむしり取られていく様子(歴史)がじつによくわかる。

「ムラビヨフ・アムールスキー公園」を歩き、展望台からアムール川を見下ろしたあとは、公園とは道をはさんで反対側にある「ロシア軍極東軍管区歴史博物館」を見学。屋外には軍用車両や高射砲、歴代の戦車、現在の主力戦車のT80、ミグ17戦闘機などが展示されている。屋内の展示では旧満州での日本軍との戦闘が目を引いた。

 ソ連軍が参戦したのは終戦間近の昭和20年(1945年)8月8日。150万の兵力が怒涛のごとく旧満州の全域になだれ込んできた。主力は東方のウラジストク周辺の部隊と西方のモンゴルに駐屯していた部隊。東方からはハルビン、新京(長春)へと攻め、西方からは大興安嶺山脈を越えて奉天瀋陽)へと攻めた。日ソ間の戦闘は終戦後の9月までつづいた。100万の兵力の日本軍(関東軍)は敗走に敗走を重ねて10万人近い死傷者を出し、60万人もの兵士が捕虜になり、その後、シベリア各地に抑留された。「極東軍管区歴史博物館」の展示を見ていると、旧満州での日ソ戦がつい昨日のような臨場感でもって迫り、ロシアの脅威にしばらくは立ちすくんで動けなかった。

「ロシア軍極東軍管区歴史博物館」の見学を終えると、ロシア正教の教会前から石段を下り、アムール川の川岸の遊歩道を歩く。ここはハバロフスク市民の憩いの場。露店でロシア人の大好きなクワスを買って飲みながら、アムール川の悠々とした流れを眺めた。クワスといえばロシア人の国民的飲料。ユジノサハリンスクでも大ジョッキで飲んだが、ライ麦などを発酵させた弱いアルコール飲料で、ビールをさらに弱くしたようなもの。それをロシア人たちはジュースがわりに飲んでいる。

 クワスを飲み終わったところで、アムール川の遊覧船に乗船。アムール川のクルージングはハバロフスクでのメインイベントだ。今度は船内の売店で買ったカンビール、アサヒのスーパードライを飲み、ホットドッグを食べながら、アムール川の流れと川岸につづくハバロフスクの町並みを眺めた。アムール川の「アムール」はギリヤーク語の「ダムール(大河)」に由来するというが、まさに大河。まるで海を行くようだ。

 ハバロフスクアムール川ウスリー川の合流地点の右岸にできた町。1963年3月2日、アムール川に合流するウスリー川の中州、ダマンスキー島珍宝島)でソ連軍の警備兵と中国人民解放軍の兵士との間で武力衝突が発生した。それが引き金になって両国は激しく対立し、核兵器を使っての全面戦争という瀬戸際までいった。世界中がかたずを飲んで見守ったが、コスギン・周恩来会談でかろうじて全面戦争は回避された。この地はまさに世界中に大きな衝撃を与えた現代史の現場なのだ。

 その後、1991年の中ソ国境協定でソ連極東の大部分の国境が確定し、ソ連側の譲歩でウスリー川珍宝島は中国領になった。このときの中ソ国境協定でも国境が確定されずに残ったのは、アムール川の3つの島。1島はアムール川上流、アルグン川のアバガイト島(阿巴該図島)、もう2島はアムール川ウスリー川合流地点のタラバーロク島(銀龍島)と大ウスリー島黒瞎子島)。これら3島の帰属は解決困難な問題と思われていたが、2004年10月14日、ロシアのプーチン大統領と中国の胡錦濤国家主席の首脳会談で政治決着し、最終的な中露国境協定が結ばれた。この結果、アルグン川のアバガイト島(阿巴該図島)は中露両国に分割され、タラバーロク島(銀龍島)の全域と大ウスリー島黒瞎子島)の西半分が中国領に、大ウスリー島黒瞎子島)の東半分はロシア領土になった。ロシア側の譲歩によって、最終的な中露国境が確定した。それは1689年のネルチンスク条約から315年後のことだった。

 このように2004年10月14日は中露両国にとっては記念碑的な日だが、何とその前日の2004年10月13日、ぼくは「旧満州走破行」で中国東端の町、撫遠から中国・軽騎スズキ製の110㏄バイク、QS110で「中国東極」(中国最東端の地)まで行った。黒龍江アムール川)とウスリー江(ウスリー川)の合流地点が東極になっていた。その地に立ち、「やったぜー!」と万歳して「中国東極」への到着を喜んだ。その翌日から対岸の大ウスリー島黒瞎子島)が国境になり、その結果、「中国東極」も若干、東にずれた。ということでぼくは最後の1日に旧中国最東端の地に立ったことになる。

 アムール川のクルージングを終えると、ロシア正教のウズベンスキー教会の前からハバロフスクの目抜き通り、「ムラビヨフ・アムールスキー通り」を歩きはじめる。レーニン広場までつづく2キロほどの大通り。車道も歩道も道幅が広く、ゆったりと歩ける。強い夏の日差しがカーッと照りつけている。頭がクラクラするほどの暑さで、露店のアイスクリームを食べながら歩いた。

 大通り沿いには中央デパートをはじめとして、様々な店が並んでいる。「サッポロ」という日本食のレストランがあった。世界を席捲している「サムスン」のショップはロシア風の建物の中にあった。ムラビヨフ・アムールスキー通り沿いにはみやげ物店もある。そのうちの1軒、大きなみやげ物店に入ると、マンモスの牙の彫り物に目が吸い寄せられた。ロシアならではのマトリョーシカ琥珀の製品、カラフルなホフロマ塗りなどが売られている。壁一面にかけられた絵画がロシアを感じさせた。

 ハバロフスクの町歩きを終え、「ホテルインツーリスト」に戻ると、我々メンバー全員はタクシーに乗ってアムール川の河畔へ。モーターボートの船着き場に隣接したレストランでのバーベキュー・パーティーだ。おおいに飲み、うまい肉をたら腹食べた。我らのガイド、東さんがロシアン・ビューティーを連れてきてくれたこともあって、バーベキュー・パーティーは盛上がった。

 バーベキュー・パーティーが終わりを告げる頃、ロシア人ライダーがビッグバイクに彼女を乗せてやってきた。日本人ライダーが大挙してやってきたと聞いて、我々に会いに来てくれたのだ。今度は国境を越えてのバイク談義で盛上がる。我らライダーにとっては国籍も人種も関係ない。「バイク大好き!」というだけで十分に気持ちが通じ合うのだ。

「ホテルインツーリスト」に戻ると、東さんがさきほどのユリア、オクサーラ、ナターシャ、カチューシャの4人のロシアン・ビューティーを連れてくる。彼女たちをまじえての2次会開始。「ホテルインツーリスト」前のロシア風居酒屋でウオッカを飲むほどに、ハバロフスクの夜は更けていった。

 翌朝は夜明けとともに起き、ロシア正教のウズベンスキー教会前の広場から石段を下り、アムール川の河畔を歩いた。アムール川の上空には大きな月が浮かんでいた。「これが最後だ!」とアムール川の流れをしっかりと目に焼きつけ、「ホテルインツーリスト」に戻り、バイキング形式の朝食を食べた。

 8時、ハバロフスクを出発。市内のガソリンスタンドで給油し、ウラジオストクに通じるM60(国道60号)を南下。2車線の舗装路で交通量はけっこう多い。ビッグバイクに乗ったツーリングライダーを見かける。荷物満載の「シベリア横断中」を思わせるバイクともすれ違った。ビッグバイクでのツーリングライダーを見ると、ロシアでのこの10年あまりでの経済的な発展を強く感じた。2002年の「ユーラシア横断」ではツーリングライダーを見ることはほとんどなかったからだ。

 ところでM60は「ハバロフスクウラジオストク」間の幹線国道だが、ウラル山脈以東のシベリア横断ルートは東麓のチェラビンスクから日本海ウラジオストクまではM51→M53→M55→M58→M60と5本の国道でつながっている。

 M51は「チェラビンスク→ノボシビルスク」、M53は「ノボシビルスクイルクーツク」、M55は「イルクーツク→チタ」、M58は「チタ→ハバロフスク」、そしてM60が「ハバロフスクウラジオストク」になる。シベリアにはもう1本、M56がある。M56はスコボロディーノでM58と分岐し、ヤクーツクを通り、オホーツク海のマガダンに至るルート。M58はいつの日か走破したいルートだ。

 それにしてもロシアという国がいかにシベリアをおろそかにしてきたかが、これらM51からM60を見ればよくわかる。ウラル山脈以東の広大なシベリアの幹線国道はこれだけ。そのシベリア横断国道にしても、全線が開通したのはつい最近のことでしかない。同じロシアでもウラル山脈以西のヨーロッパ側になると、首都モスクワを基点にして放射状の幹線国道が四方八方に伸びている。国土の10分の1にも満たないエリアに幹線国道が網の目状に張りめぐらされているのだ。2002年の「ユーラシア横断」は、ウラル山脈を境にしてのアジア側ロシアとヨーロッパ側ロシアのあまりの違いを見せつけられた旅でもあった。

 M60(国道60号)を南下する。この国道は中国国境のすぐ近くを通っている。国境をアムール川の支流、ウスリー川が流れているが、川の流れは見えない。国道沿いには森林地帯がつづき、その中を一直線に切り裂いてM60が延びている。直線区間が長く、カーブもゆるやか。大陸を実感させる道。国道沿いのカフェで小休止したときは、ちょっと近くの村まで行ってみたが、M60とはうってかわって穴ぼこだらけのダート道。ガタガタいわせながら村の中に入った。

 M60をさらに南下し、24時間営業のガソリンスタンドで給油。いつものようにオクタン価95のガソリンを入れた。ほかに92、80もある。80だとエンジンがやられそう。以前、南米ではオクタン価70というガソリンを入れたことがあるが、エンジントラブルを起こすのではないかとヒヤヒヤし通しだった。

 M60沿いのガソリンスタンドでの値段は95が1リッター29ルーブル80カペイカ(約83円)、92は28ルーブル50カペイカ(約79円)、80は26ルーブル85カペイカ(約75円)で、95と80では日本円で10円近い差があった。ここではスズキの650㏄バイクに乗るロシア人のツーリングライダーに出会った。モスクワを出発してから15日目とのことで、「今日中にはウラジオストクに着く」といっていた。彼の話によると「モスクワ→ウラジオストク」は15日ぐらが普通だという。その間は約1万キロ。1日平均約600キロになるが、シベリア横断ルートならば楽に走れる走行距離。ロシア人のツーリングライダーと話していると、新たな「ユーラシア横断」への夢が無性にかきたてられるのだった。

 ハバロフスクからウラジオストクに通じるM60(国道60号)沿いのガソリンスタンドでは、スズキの650でシベリア横断中のロシア人ライダーに会った。わずかな時間でしかなかったが、カタコトの英語をまじえての彼との会話は心に残った。ウラジオストクに向かって走り去っていく若きロシア人ライダーを見送ったあと、我々もM60を南下していく。

 中国国境の町、ダリネレチェンスクに近づいたところで昼食。国道沿いのカフェに入った。「カフェ」はロシアツーリングではきわめて重要。文字通り、コーヒーを飲んでひと休みするところだが、大半のカフェはレストランをも兼ねている。「15人分」と聞いてカフェの女主人は「さー、困った」という顔をしたが、我々のガイドの東さんがうまく女主人をまるめ込んでくれたおかげで全員、昼食にありつけた。女主人は15人分のボルシチと7人分のピロシキ、8人分の肉料理を用意してくれた。ボルシチも肉料理もロシアの家庭料理の味がした。

 ハバロフスクから350キロのダリネレチェンスクは2002年の「ユーラシア横断」で泊まった町なのでなつかしい。M60はダリネレチェンスクの町中には入らず、バイパスで町の東側を通過していく。ダリネレチェンスクを過ぎたところでバイクを止めて小休止。目の前に見える丘の向こうは中国。このあたりは中露国境のすぐそばだ。

 ハバロフスクからダリネレチェンスクまでの中露国境をアムール川支流のウスリー川が流れている。ダリネレチェンスクの周辺で何本もの川が合流し、大河、ウスリー川になる。そのうちの1本はロシア・中国にまたがる大湖、ハンカ湖から流れてくるスンガチャ川だ。ハンカ湖は面積4403平方キロ。琵琶湖の6・5倍もの広さがある大湖で、その北側は東アジアでも有数の大湿地帯。ラムサール条約の登録地で丹頂鶴などの繁殖地になっている。かつてはトキも生息していたという。

 ハンカ湖に流れ込む川は20本以上もあるが、流れ出るのはスンガチャ川1本だけで、中露国境を流れ、ダリネレチェンスクの西側でウスリー川に合流する。ロシア沿海州のシホテ・アリニ山脈からはホール川やアニュイ川、ビキン川など何本もの川がウスリー川に流れ込んでいる。ウスリー川は全長897キロ。信濃川の2・5倍の長さがある。ウラジオストクのすぐ近くまでがウスリー川の水系で、ロシアの沿海州ウスリー川とともにあるといっていい。

 1860年の北京条約でロシアはウスリー川以東の地(今の沿海州)を手に入れたが、満州国の時代には、この川をはさんで日本の関東軍ソ連軍が対峙していた。「ハバロフスクウラジオストク」間というのは、このようなウスリー川紀行でもある。M60を走っていると、残念ながらウスリー川の流れを見ることはできないが、次の機会にはぜひともハンカ湖やその周辺、シホテ・アリニ山脈のウスリー川源流地帯を走ってみたい。

 ハバロフスクから580キロ走ってスパースク・ダリニーの町に到着。ここでひと晩、泊まった。町の入口にあるガソリンスタンドで給油したあと、洗車場で全車、洗車してもらう。ウラジオストクからのフェリーに乗せるためだ。我々はピカピカになったそれぞれの愛車に乗って町の中心のレーニン広場へ。きれいな花々で囲まれた広場の中央にはレーニン像が建っている。レーニン広場に面した「ロトスホテル」が今晩の宿。部屋に荷物を入れると、夕暮れの町を歩いた。この町には古き良きロシアを感じさせるものがある。

「ロトスホテル」に戻ると、我々は夜の町を歩き、シベリア鉄道のスパースク・ダリニー駅近くのレストランに入った。まずはロシアン・ビールの「バルチカ」で乾杯。そのあとスープ、サラダ、チキンカツレツの夕食を食べる。チキンカツレツの上にのったトロッとしたチーズが美味。そんなチキンカツレツを食べながら、「カツレツ」はロシアの国民食だとあらためて実感する。レストランの裏をシベリア鉄道の列車が通り過ぎていく。その音が旅心をいたく刺激するのだった。

 2011年8月15日7時、スパースク・ダリニーの「ロトスホテル」を出発し、ウラジオストクに向かう。外はまだ暗い。夜明け前の出発になったのは、バイクの出国手続きに相当、時間がかかるため。ウラジオストク港にはできるだけ早く到着したかった。ライトの明かりを頼りに走り、M60(国道60号)を南下。やがて夜が白々と明けてくる。

 8時、街道沿いの24時間営業のカフェで朝食。スープとピロシキを食べる。ピロシキといえば日本でも人気の揚げパン。中には肉やジャガイモ、野菜が入っている。ロシアには揚げピロシキだけでなく、焼きピロシキもある。もともとは東欧の料理で、それがロシアに定着したようだ。

 朝食を食べて元気をつけたところで、さらにM60を南下。10時、スパースク・ダリニーから140キロのウスリースクに到着。このあたりがアムール川の支流、ウスリー川日本海に流れ出る川を分ける分水嶺になっている。といっても山々が連なる山地ではなく、ゆるやかな起伏が連続するどちらかというと平原に近いような地形で、その中にウスリースクの町がある。M60はそのままウスリースクの町中に入っていくので、抜け出るまでが大変。何度も道に迷い、そのたびに止まり、道標などで道を確認した。ウスリースクは活気のある大きな町だ。ウスリースクはまた交通の要衝の地。シベリア鉄道が通り、中国からの鉄道、北朝鮮からの鉄道がここで合流する。

 ウスリースクからウラジオストクまでは100キロ。しかしこの100キロが難行苦行の連続だ。ウスリースクを過ぎると交通量は飛躍的に増大した。4車線化の工事をしているので大渋滞の連続。おまけに雨が降ってきた。工事区間は泥地獄のようなズボズボヌタヌタの悪路。そのためヘルメットのシールドには前を行く車の跳ね上げる泥がべったりとこびりつき、視界ゼロの状態になる。「もう、こうなったら裸眼だ!」と決め、オーバーに言えば失明覚悟で走った。目の中にはズブズブと泥が突き刺さり、まぶたの開け閉めができなくなるほど。それでも工事区間の悪路を走りつづけた。

 やっとの思いでウラジオストク市内に入ると、今度はまったく動かない大渋滞にはまり込む。これが今のウラジオストク。10年前とは比べものにならないくらい車が増えている。バイクだけなら何とかなるのだが、サポートカーとサポート用のトラックを待たなくてはならないので、我々は渋滞すり抜けという訳にはいかなかった。

 14時、ウラジオストク港に到着。このときばかりは心底、ホッとした。失明覚悟で走ったのだが、顔にこびりついた泥を洗い流すと、まぶたはまた元通りに開け閉めできるようになった。人間の体はじつによく出来ている。まるで地獄のようなウラジオストク到着になったが、我々は「(ここまでの環日本海ツーリングで)ウラジオストクが一番の難所!」といって笑った。