賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

東アジア走破行(6)ユーラシア大陸横断

 2002年の「道祖神」のバイクツアー「賀曽利隆と走る!」の第7弾目、「ユーラシア大陸横断」では、ロシアのウラジオストクからユーラシア大陸最西端のロカ岬まで、1万5000キロを走った。そのうちの欧亜を分けるウラル山脈の峠までが第4弾目の「東アジア走破行」になる。

 富山県の伏木港からロシア船の「ルーシ号」にバイクともども乗り込み、ウラジオストクに渡り、7月2日に出発。シベリア横断の旅がはじまった。

ユーラシア大陸横断」に参加した「ユーラシア軍団」の17台のバイクに、サポートカーが1台ついた。それには道祖神の菊地さんとメカニックの小島さん、それとロシア人通訳が乗った。

 ウラジオストクから770キロ北のハバロフスクまでは幹線国道のM60。交通量も多い。シベリアの大河、アムール河畔の都市、ハバロフスクを過ぎると、幹線国道はプッツンと途切れ、マイナーなルートになってしまう。おまけに豪雨。ビロビジャンという町では濁流が渦巻き、町中で川渡りをした。

 ビロビジャンを過ぎると、ダートに突入。ツルツル滑る路面だったが、さすが大陸のダート、荒野をズバーッと突き抜けているので高速で突っ走った。100キロのダートを走りきり、23時にオブルチェ着。クタクタになってたどり着いたオブルチェのホテルは一滴も水が出なかった。

 翌日は中国国境の町、ブラゴベシチェンスクに向かう。そこまで約400キロ。そのうち100キロがダート。降りつづく雨の中、前日同様、ツルツルのダートをひた走る。コーナーが怖い。ノボブレスキーという町を過ぎ、舗装路に変わったときはホッした。

 ブラゴベシチェンスクはアムール川に面している。対岸は中国の黒河(ホイヘ)の町。このブラゴベシチェンスク駅でバイクと車を列車に積んだ。チタまでの約1000キロは道らしい道がないからだ。

 ブラゴベシチェンスクからシベリア鉄道本線のベロゴロスク駅までの列車旅がよかった。ツンドラの大湿地帯やポプラの防雪林、シラカバ林などを見た。

 ベロゴロスク駅からチタ駅までの間では、シベリア鉄道沿いのダートを目をこらして見つづけた。雨がつづくときつそうだが、道の状態とガソリンの問題をクリアできれば、十分に走りきれそうな道に見えた。

 途中のスコウォロディーノ駅では、特別な感慨に襲われた。この町からはヤクーツクを経由し、はるか遠くのオホーツク海の港町、マガダンに通じるM56が出ているのだ。

「またいつか、シベリアを走りたい。そのときはハバロフスク→チタ間とスコウォロディーノ→マガダン間を走ってみたい!」

 チタからイルクーツクへ、M55を走る。ゆるやかな峠を越える。この峠はオホーツ海に流れ出るアムール川北極海に流れ出るエニセイ川の水系を分ける分水嶺。海からはるかに遠いシベリアの内陸地だが、海が変わった。ここからはウラル山脈を越えるまでは、ずっと北極海とつながった世界になる。

 峠を越えると、はてしなくつづくタイガ(針葉樹)。チタから330キロのヒロックで泊まったが、鉄道大好き人間のカソリはシベリア鉄道のヒロック駅に行った。駅構内には木材専用列車、石炭専用列車、コンテナ専用列車など貨物列車が5本も停車していた。そのどれもが60両以上の長い編成。駅前を流れるヒロック川では、大勢の人たちが水遊びをしていた。短いシベリアの夏を謳歌しているようだった。

 このヒロック川はモンゴルから流れてくるセレンゲ川に合流し、バイカル湖に流れ込む。バイカル湖から流れ出る唯一の川がアンガラ川。それがエニセイ川の本流と合流し、北極海へ。エニセイ川は全長4130キロの大河だ。

 ヒロックからモンゴル国境に近いウランウデへ。タイガから大草原へと風景が変わる。緑一色の大草原、黄色い花、白い花の咲く大草原、あまりの風景の大きさに圧倒されてしまう。

 ウランウデからイルクーツクへ。その途中でバイカル湖を見た。海と変わらない大きさ。見渡す限りの水平線。M55を外れ湖岸へ。波が押し寄せている。こうして7月10日の夕刻、ウラジオストクから2700キロ走り、イルクーツクに到着した。

“シベリアのパリ”ともいわれるイルクーツクの町を歩いた。歴史を感じさせる町並み。アンガラ川の川岸に立つオベリスク。「郷土史博物館」を見学したが、シベリアに住む少数民族の生活用具の展示に目がいった。

 イルクーツクからはM53を西へ。サヤンスクでひと晩泊まり、シベリア有数の都市、クラスノヤルスクに向かった。その途中でダート国道に突入。道幅は広い。モウモウと土煙を巻き上げて走るトラックやバス、乗用車とすれ違う。路面の状態はまあまあで、フラットダートなので高速で走れた。ダート区間は何区間かあり、ダートの合計は約80キロ。「ウラジオストク→モスクワ」間で唯一のダート国道だ。

 クラスノヤルスクに到着。エニセイ川の本流に面している。北極海からは3000キロ近くも内陸に入っているのに、川幅は1キロ以上もある。堂々とした大河の風格だ。

 クラスノヤルスクからシベリア最大の都市、ノボシビルスクに向かうとすぐに、ゆるやかな峠を越える。その峠がエニセイ川とオビ川の水系を分ける分水嶺。オビ川もやはり北極海に流れ出る川で、全長は3680キロ。シベリアにはオホーツク海に流れ出るアムール川(全長4353キロ)と北極海に流れ出る3本の川、レナ川(全長4270キロ)、エニセイ川、オビ川という四大河川がある。

 こうしてシベリアを横断し、シベリアの大河に出会うたびに、

「今度はシベリア大河紀行をしてみたい!」

 という、新たな思いにとらわれた。

 川船に乗れば、シベリアの相当、奥地にまで行けそうだ。

 オビ川の本流に面したノボシビルスクに到着。ここで見るオビ川も川幅は1キロ以上ある。遊覧船に乗り、オビ川の船旅を楽しんだ。

 ノボシビルスクからはM51でオムスクに向かった。このM51はカザフスタンのペトロパウルを経由してウラル山脈の麓の町、チェラビンスクまで通じている。

 その途中ではヤマハの1200㏄バイク、ロイヤルスターでシベリア横断中の吉田滋さんに出会った。なんという偶然。吉田さんは1966年から68年にかけてヤマハのYDS250で「世界一周」した方。そのときぼくは20歳だった。

「アフリカ一周」に出発する直前だった。20以上もの質問事項をノートに書いて、それを持って帰国早々の吉田さんにお会いした。吉田さんはていねいにひとつづつの質問に答えてくれた。

 当時はバイクでの海外ツーリングの情報が皆無に近かった時代。吉田さんに教えてもらったことは「アフリカ一周」にどれだけ役立ったことか。吉田さんは30数年も前のそんなぼくとの出会いをおぼえていてくれた。

 吉田さんは大学を卒業するとすぐに「世界一周」に旅立ち、3年あまりの旅を終えるとヤマハに入社した。ヤマハ一筋で定年退職すると、今回のシベリア横断ルートでの「世界一周」に旅だった。ウラジオストクを出発点にしてシベリアを横断し、モスクワからサンクトペテルブルグへ、そしてフィンランドヘルシンキに向かう。

 吉田さんは30数年前の「世界一周」のときにヘルシンキまで行ったが、モスクワまで走ることができずに悔しい思いをした。その悔しさを今回、はらそうとしているのだ。

 そんな話を聞いてぼくは胸がジーンとしてしまう。吉田さんはヨーロッパからアメリカに渡り、アメリカを横断して2度目の「世界一周」を達成させたいという。20代のときと60代のときの「世界一周」。なんてすばらしいことだろう。そんな吉田さんと固い握手をかわして別れた。

 オムスクに向かっていくと、カザフスタンの国境近くを通る。南からの熱風に吹かれ、地平線までつづく大草原を見ていると、カザフスタンなどの中央アジアの国々に無性に行ってみたくなる。

 ウラジオストクを出発してから20日目、7月22日にチェラビンスクからM5でウラル山脈に向かった。アジア側最後の町ミアスまで来ると、ウラル山脈のゆるやかな山並みがはっきりと見えてくる。峠を目指して登っていく。直線の長い峠道。チェラビンスクから124キロの地点で峠に到達。そこにはアジアとヨーロッパを分ける碑が建っていた。境の1本の線をまたぎ、「こっちがアジア、こっちがヨーロッパ」と気宇壮大な気分に浸るカソリだった。

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(先にもふれたように、ここまでがカソリの第4弾目の「東アジア走破行」になる。ウラル山脈を越えるとモスクワ、ワルシャワ、ベルリン…を通ってユーラシア大陸最西端のロカ岬まで行ったのだが、詳しくは当サイト『賀曽利隆オンザロード』の連載、「ユーラシア大陸横断2002」を見てください)