「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(16)
女川から国道398号で三陸のリアス式海岸を行き、ふたたび石巻市に入る。
旧雄勝町雄勝の公民館の屋根上に乗ったバスは3・11から1年を機に下に降ろされたが、雄勝湾の一番奥に位置する雄勝の町には何も残っていない。女川同様、町が消え去った。瓦礫が撤去されているので、よけい異様な光景に見える。まるで遺跡を見るかのようだ。
ただ女川と違うのは、女川には復興の息吹きを強く感じたが、雄勝にはまったく感じられない。復興の気配さえないのが雄勝といっていい。旧雄勝町は石巻市と合併したことによって、石巻市から見捨てられてしまったかのようだ。
雄勝から釜谷峠を越えると東北一の大河、北上川の河畔に出る。そこには新北上大橋がかかっている。橋の一部が流されたので長らく通行止がつづいたが、今は通行できる。
新北上大橋の右手には、今回の大津波では一番の悲劇の舞台になったといっていい大川小学校がある。ここでは78人の生徒と11人の職員が津波に流され、助かったのはわずか4人の生徒と1人の職員だけだった。ここは北上川河口から約5キロの地点。これだけの大津波が太平洋から5キロも内陸の地に押し寄せるとは誰も想像もしなかった。
新北上大橋を渡り、旧北上町に入っていく。
2005年4月、平成の大合併で石巻市と雄勝町、北上町、牡鹿町、河南町、河北町、桃生町の1市6町が合併し、今の石巻市になった。そのうちの旧北上町の庁舎は北上川の河口近くにあった。避難所になっていたが、大津波はその庁舎を一瞬にして呑みこんだ。ここには吉浜小学校の生徒たちも避難していたが、多数の生徒が亡くなっている。
石巻市では今回の大津波で3700人以上もの犠牲者を出した。これは東北太平洋岸の市町村の中では最大だ。
その夜は旧北上町の民宿「小滝荘」に泊まった。飛び込みで行ったのだが、ありがたいことに夕食も用意してくれた。
夕食後、宿のみなさんの話を聞いた。
1年前の3月11日も寒い日だった。大津波から逃げて生き残った人たちも、その夜の寒さを乗り越えることができず、何人もの人たちが凍死したという。3月11日は東北ではまだ冬同然なのだ。
「どうせ4、50センチぐらいの津波だろう」
と、誰もがタカをくくっていたという。ところが想像をはるかに超える20メートルもの大津波に車もろとも流されてしまった。
国道398号沿いの民宿「小滝荘」は高台にあるので無事だった。ここには相川小学校3年生の空君がいるが、相川は海辺の集落、相川小学校も海岸のすぐ近くにある。それにもかかわらず、空君を含めて70余名の生徒、全員が無事だった。
地震発生と同時に生徒たちは先生方と一緒に小学校の裏山を駆け登った。すぐ後まで迫る大津波の恐怖といったらなかったという。「東日本大震災」の3日前に、相川小学校では津波の避難訓練がおこなわれた。先生や生徒たちは避難訓練通り、迷うことなく裏山に登った。相川小学校の裏山は、大川小学校の裏山よりもはるかに急。生徒たちは励ましあい、草の根につかまって山肌をよじ登った。
同じ石巻市内の大川小学校と相川小学校は今回の大津波ではあまりにも明暗を分けてしまったが、何度となく津波の避難訓練をやってきた相川小学校と津波の避難訓練を一度もやったことのない大川小学校の違いがあからさまに出てしまった。
雄勝の公民館。バスは降ろされた
雄勝の町跡
大川小学校
北上川の河口
旧北上町の民宿「小滝荘」
「小滝荘」の夕食
2011年5月18日の雄勝
大川小学校の廊下に張られていた生徒や先生方の写真(2011年7月3日撮影)