賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

日本食べある記(12)氷見ブリ

(『市政』1994年11月号 所収)

高岡を歩く

「越中ブリ」の本場、富山県氷見市に行こうと、「ますずし」を食べたあと、富山駅から北陸本線の鈍行列車に乗った。

 富山県西部、呉西の中心高岡で氷見線に乗換え、終点の氷見まで行くつもりだったが、その前に高岡駅で下車し、町をぷらぷら歩いてみた。

 高岡はさすがに仏像づくりが盛んなだけあって、駅構内にはブロンスの仏像が展示されている。町を歩いていても、仏像に限らず、いろいろなブロンズ像をあちこちで数多く見かける。

 高岡といえば、江戸時代以来の伝統を誇る鋳物師の町。とくに寺院の梵鐘づくりは有名。全国の寺院の梵鐘の大半は、高岡でつくられたものだ。

 それと目につくのは、きらびやかな仏壇をずらりと並べた仏壇店が多いことである。

 富山県をはじめとする福井、石川の北陸三県は、日本でも有数の真宗地帯になっている。浄土真宗の家々では、豪華絢爛の仏壇を飾っている。信仰心の厚い北陸の人々という背景があって、高岡の仏壇店が成り立っているのだろう。

 最後に、奈良、鎌倉とともに、“日本三大大仏”ともいわれる高岡大仏を見に行く。台座を含めての高さが15メートルという堂々とした大仏だ。

氷見線の終着、氷見駅に到着

 高岡から氷見線に乗る。終点の氷見駅まではわずかに16・5キロでしかない。途中の駅数は6つという短い路線だが、この氷見線には興味をそそられる駅がつづくのだ。

 高岡を出発すると列車は越中中川駅、能町駅と通り、庄川、小矢部川にはさまれた沖積平野を走り、小矢部川を渡って15分で伏木駅に着く。

 伏木は小矢部川河口の西岸に位置する港町。富山湾岸では最も古い歴史を持っている。江戸時代には日本海を行き来する千石船、北前船の出入りする港としておおいに栄えた。ここは海路でもって京・上方と結ばれ、越中第一の先進地であった。

 伏木駅の次が越中国分駅。その名のとおり、この地(二上山の東麓)には越中の国府が置かれ、国分寺跡などが残されている。

 つづいて雨晴駅。富山湾の風光明媚な海岸の雨晴は、源義経と弁慶の主従が奥州に落ちていくとき、岩の下で雨が晴れるのを待ったという故事に由来するという。そんな雨晴海岸には義経伝説の雨晴岩がある。

 雨晴海岸は古くは有磯海と呼ばれ、歌に詠まれる世界であった。

『古今集』には、「ありそ海の 浜の真砂と 頼めしは忘るることの 数にぞありける」とある。

「早稲の香や 分け入る右は 有磯海」と、芭蕉の『奥の細道』にも登場する。

 雨晴駅の次の島尾駅を通り、高岡駅から30分で、終点の氷見駅に着いた。

氷見で氷見ブリを食べる

 氷見線の終着、氷見駅で下りると、さっそく“越中ブリ”の本場、氷見の町を歩く。

 まっ先に私の目をとらえたのは、ブリの藁巻きである。みやげ物店の店先に、それも一番目のつくところに、ぶらさがっている。

 ブリの藁巻きというのは、この地方特有のブリの保存方法で、1週間ほど塩蔵したブリをさらに1、2週間かけて陰干しにし、表面にしみ出た脂分をとり除き、米糠と塩を塗りつけて稲藁で巻いたものである。

 それともうひとつ、目についたのはかまぼこである。

 かまぼこといえば小田原や萩、仙台、敦賀などが知られている。ところが氷見を含めて富山のかまぼこが他産地と違うのは、食べるのがもったいなくなるくらいの、豪華な、色とりどりの細工かまぼこが盛んにつくられていることである。

 籠に盛られたツル、カメ、マツ、エビ、富士山、打ち出の小槌といった細工かまぼこやタイのかまぼこは、結納や結婚式には欠かせないものになっている。

 氷見の町を歩いていると、この細工かまぼこをつくる店を何軒も見かけるが、よくこれで商売になるものだと感心してしまうほど。それだけ、細工かまぼこの需要が多いということなのだろう。

 細工かまぼこの一軒一軒の店は、それほど大きくはない。売り場の奥が製造所になっている、といった程度の規模の店が大半である。そんなかまぼこ店の店内に一歩、入ると、つくりかけのタイなどがずらりと並んでいたりして、圧倒されるような光景なのである。 日が暮れかかったところで氷見市内に宿をとり、さらに夜の町を歩く。そして料理屋に入り、氷見のブリ料理を賞味した。

 まずは刺し身だ。

 フクラギとシマダイ、アオリイカの刺し身を肴に、富山の地酒を飲んだ。どれもがとびきり新鮮。さすがに富山湾の魚介類だけあって、満足できる味覚だった。

 それら3種の刺し身のうち、フクラギがブリだ。

 ブリは成長するにつれて呼び名が変わる出世魚で知られているが、その名前というのは、地方によってずいぶんと異なる。

 たとえば東京ではワカシ(ワカナ、ワカナゴ)にはじまり、イナダ→ワラサ→ブリとなる。それが氷見ではピンピンからはじまり、ツバエソ→コズクラ→フクラギ(フクラゲ)→ニマイズル→アオブリ(サンカ)→コブリ→オオブリとなる。

 おおよその大きさだが、ツバエソは10センチ以下、コズクラは10センチから20センチくらい、フクラギは20センチから50センチくらい、ニマイズルは50センチから60センチくらい、アオブリは60センチから70センチくらい、コブリは70センチから80センチくらい、オオブリといったら80センチ以上の大魚を指す。

 これほどの細かい呼び名の分け方があるということは、氷見の人たちにとって、それだけブリが生活に密着した魚であることを証明している。

 刺し身を肴に富山の地酒を飲んだあと、ブリの塩焼きとあら炊き、ぬたをおかずにして、ご飯を食べた。まさに氷見でのブリ三昧だ。

 ブリはどのような料理方法でも旨い魚で、焼き魚では塩焼きのほかには照り焼きにもする。

 ブリのあら炊きは、ブリのアラとダイコンを煮込んだもので、冬にはぴったりの料理。体がぽかぽかと温まる。そのつくり方、次のようなものだ。

 まずはブリの頭をたてに二つに割ってからブツ切りにし、三枚におろした中骨も、同じくらいの大きさに切る。それらを水洗いしたあと熱湯に通す。

 次に別の鍋で、切ったダイコンをゆでる。ゆであがったところで、さきほどのブリのアラを入れ、味噌で味つけし、グツグツ煮込む。酒を少々たらすと、風味がグッと増すという。味噌味のほかに、醤油味にすることもある。

 ブリの内臓を使ったぬただが、こうしてぬたにすると、すい臓を除くすべての内臓を食べることができるという。

 ブリのぬたは、よく水洗いをした内臓をゆで、それを細かく刻み、ゆでたネギ、またはダイコンおろしといっしょに酢味噌で食べる。シコシコとした歯ざわりがなんともいえない。

 そのほかフトウと呼んでいるブリの肝臓は塩辛にすると、絶好の酒の肴になるという。このようにブリは、捨てるところのまったくない魚なのである。

氷見ブリ→越中ブリ→飛騨ブリ

 翌朝は、早起きして、氷見漁港に行く。前の晩に刺し身で食べたフクラギが、漁港に隣り合った魚市場のコンクリートの床一面に、所狭しと並べられて競りにかけられていた。 私が氷見を訪ねたときは、まだフクラギの季節だったが、これが晩秋から初冬になると、ブリの季節になる。

 富山湾の海流は、時計回り。そこでは古くから、湾内を流れる海流を利用してブリの定置網漁が盛んにおこなわれてきた。

 晩秋から初冬にかけて、雷が鳴って日本海が大荒れに荒れると、ブリが富山湾内に逃げ込んでくる。ブリがよく取れるようになるので、氷見の人たちは、その雷鳴を“ブリオコシ”と呼んでいる。そのころから、ブリがたくさんとれるようになり、ブリの季節になるのだ。

 ブリは富山県民にとっては、正月料理に欠かせない。嫁の里からは歳暮として婚家にブリを送る習わしがあり、婚家では、その片身を返す習わしであった。冬のブリを寒ブリと呼んでいるが、寒ブリはとくに美味。また1メートル近い大身の魚なので、冬の保存魚としても最適のものとなった。

 氷見港に揚がるブリは、昔から、はるか遠くの山国へと運ばれていった。

 たとえば信州の安曇野でも、正月料理にブリは欠かせないものだが、その正月用のブリのことを飛騨ブリと呼んでいる。北アルプスの野麦峠を越えて飛騨からやってくるブリだから“飛騨ブリ”なのである。

 もちろん、山国の飛騨でブリはとれない。富山湾でとれた氷見のブリは、飛騨高山の問屋を経由し、野麦峠を越えていく。ブリが北アルプスの峠を越えるのだ。その氷見のブリが信州に入ると飛騨ブリになる。

 ところで飛騨ブリだが、飛騨では越中からやってくるので“越中ブリ”と呼ばれ、越中ではブリの本場氷見にちなんで“氷見ブリ”と呼ばれている。「氷見ブリ→越中ブリ→飛騨ブリ」の図式はじつに興味深い。