賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

「旧満州走破行2004」(70)

10月13日(水)晴 撫遠(その2) 第24日目

 中露国境を流れるウスリー川に沿って小道を歩く。

 1時間ほど歩くと黒龍江(アムール川)とウスリー川の合流点に到着。ここが中国・最東端の地、「中国東極」だ。

 2004年10月13日午前10時のことだったが、それはあまりにも奇妙な偶然。その日は新たな中露国境が画定した日の前日で、ぼくは最後の1日に、旧中国最東端の地に立ったことになる。

 中露国境の町、黒龍江に面した黒河から愛琿に行ったことは、第14回目で書いた。

 この愛琿こそ、中露間の領土を画定した「アイグン条約」の締結された町である。

 愛琿は黒龍江右岸の町。古くからの河川交通の要衝の地で、黒龍江を通して各地とつながっていた。

 17世紀後半、清朝はロシアの侵入を防ぐため、愛琿に築城。この地を対ロシア交渉の拠点とした。

 アイグン条約は1858年に結ばれた条約だが、それより150年以上も前の1689年に、清朝はロシアと「ネルチンスク条約」を締結した。この条約はロシアのチタに近いネルチンスクで締結された条約で、これによって両国の国境線の一部が確定。「アイグン条約」はそれにつづくものである。

 1858年、ロシア・東シベリア総督のムラビエフはロシアの軍事的な威嚇の下で、ロシア絶対有利の国境画定のアイグン条約を結び、アムール川(黒龍江)の右岸を中国領、左岸をロシア領とした。さらにウスリー川から日本海に至る一帯を両国の共有地にした。

 アイグン条約締結2年後の1860年、北京条約によってアイグン条約は確認され、ロシアは両国の共有地としたウスリー川から日本海に至る一帯を一方的にロシア領にした。「泥棒ロシア!」

 としかいいようがない領土の略奪。衰退した清朝はロシアの餌食になった。

 ところで愛琿のその後だが、義和団事件(1899年~1901年)の時にロシア軍に侵攻されて町は壊滅。ドサクサにまぎれて侵攻するのはロシアの昔からの得意技。常套手段といっていい。

 それ以降、この地方の中心は黒河の町に移った。黒龍江(アムール川)をはさんで黒河の対岸はロシア・アムール州の州都ブラゴベシチェンスクになる。

 愛琿では「愛琿歴史陳列館」を見学したが、そこではネルチンスク条約からアイグン条約、北京条約へと、清国の領土がロシアによってむしり取られていく様子(歴史)がじつによくわかる。

 北京条約からほぼ100年後の1963年3月2日、黒龍江(アムール川)とウスリー川の合流地点の中州、珍宝島(ダマンスキー島)で中国人民解放軍の兵士とソ連軍の警備兵との間で武力衝突が発生した。

 それが引き金になって両国は激しく対立し、核兵器を使っての全面戦争という瀬戸際までいった。

 これが「国」というもの。両国にとってはほとんど誰も知らないような豆粒、いや粟粒のような領土の問題で全面戦争にまで発展するものなのだ。

 世界中がかたずを飲んで見守ったが、コスギン・周恩来のトップ会談で、かろうじて全面戦争は回避された。「中国東極」は、そんな世界中に大きな衝撃を与えた近代史の現場なのである。

 その後、1991年の中ソ国境協定でソ連極東の大部分の国境が確定し、ソ連側の譲歩で珍宝島は中国領になった。

 このときの中ソ国境協定でも国境が確定されずに残ったのは、黒龍江(アムール川)の3つの島だ。

 1島は黒龍江(アムール川)上流のアルグン川のアバガイト島(阿巴該図島)、もう2島は黒龍江(アムール川)とウスリー川合流地点の銀龍島(タラバーロク島)と黒瞎子島(大ウスリー島)だ。

 これら3島の帰属は解決困難な問題と思われていたが、2004年10月14日、中国の胡錦濤国家主席とロシアのプーチン大統領の首脳会談で政治決着し、最終的な中露国境協定が結ばれた。

 その結果、アルグン川の阿巴該図島(アバガイト島)は中露両国に分割され、銀龍島(タラバーロク島)の全域と黒瞎子島(大ウスリー島)の西半分が中国領に、大ウスリー島(黒瞎子島)の東半分はロシア領土になった。こうして最終的な中露国境が確定した。それは1689年のネルチンスク条約から324年後のことだった。

 その結果、黒瞎子島(大ウスリー島)が新たな中露国境になり、「中国東極」も若干、東にずれた。ということでぼくは最後の1日に、「旧中国東極」に立ったことになる。

manchuria2004-070-8070

最後の1日に「中国東極」に立つ。右がウスリー川、左が黒龍江(アムール川)