賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

中山道69次(1)

2009年5月13日(1)

 午前7時、日本橋を出発。スズキの125㏄スクーター、アドレスV125Gを走らせ、中山道を走り始める。「中山道69次」を走りきって終点の京都を目指すのだ。

 東京から高崎までは国道17号に沿っている。東大の赤門(加賀藩江戸屋敷の御守殿門)前を通り、JR山手線の巣鴨駅前からは地蔵通商店街に入っていく。この道が旧中山道。「おばあちゃんの原宿」のとげぬき地蔵高岩寺)は朝早くから参拝者の姿が見られる。そのまま中山道旧道を走る。都電荒川線を渡り、明治通り(環状5号)を横切り、JR板橋駅前から最初の宿、板橋宿に入っていく。板橋宿は東海道品川宿甲州街道内藤新宿宿同様、都内の宿場だ。

 板橋宿を走り、地名の由来ともなった板橋を渡り、幅広の国道17号(中山道)に出る。都営地下鉄志村坂上駅前には志村の一里塚。国道17号の両側に一里塚が残っている。そこには次のように書かれている。

「江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長9年(1604年)2月に諸国の街道に一里塚の設置を命じました。これにより、5間(約9m)四方、高さ1丈(約3m)の塚が江戸日本橋を基点として1里(約4km)ごとに、道を挟んで築かれました。志村の一里塚は本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道第3番目の一里塚として築かれたもので、天保元年(1830年)の『新編蔵風土記稿』では『中山道往還の左右にあり』と紹介されています。

 幕末以降、十分な管理が行き届かなくなり、さらに明治9年(1876年)に廃毀を命じた法が下されるに及び多くの一里塚が消滅していきましたが、志村の一里塚は昭和8年からおこなわれた新中山道の工事の際に、周囲に石積みがなされて土砂の流出をふせぐ工事が施されて保全され、現在に至っています。今日、現存する一里塚は全国的にも非常に稀なもので、都内では北区西ヶ原と志村の2ヵ所だけです。そのため交通史上の重要な遺構として、大正11年(1922年)に国の史跡に指定され、昭和59年に板橋区の史跡に登録されました」

 志村からは中山道の坂を下り、環8との交差点を過ぎ、荒川にかかる戸田橋を渡って埼玉県に入った。

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東京・日本橋を出発!

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東大の赤門

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巣鴨の地蔵通り商店街

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とげぬき地蔵」の高岩寺

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板橋駅

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中山道の道標

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志村の一里塚

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荒川を渡って埼玉県へ