賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

「鈍行乗り継ぎ湯けむり紀行」(11)

(月刊『旅』1994年12月号 所収)

琵琶湖畔の長浜太閤温泉

 東京から東海道本線で温泉の“はしご旅”をくり返しながら、滋賀県米原までやってきた。

 北陸本線の起点にもなっている米原からは、北陸本線信越本線の鈍行列車に乗り継ぎながら温泉に入り、北陸、信州を駆けめぐろうと思うのだ。

 第1本目の列車、米原発7時26分の長浜行きに乗る。

 京都始発の8両編成の電車で、すでに大半の乗客は途中駅で降り、車内はガラガラ。左手には、琵琶湖東岸の広々とした水田地帯が広がり、右手には、伊吹山地の山々が連なっている。

 7時35分、長浜着。

“駅前食堂”で朝食を食べたあと、長浜の町を歩く。ここには、長浜太閤温泉がある。

 北陸(北国)街道の要衝の宿場町として、豊臣秀吉が城を築いた城下町として知られる長浜だが、ぼくがまっ先に行ったのは旧長浜駅の駅舎。現在は鉄道資料館になっている。イギリス人技師の手によって完成したイギリス風の建物である。

 長浜は、明治15年北陸本線が開業したときの始発駅。日本海への玄関口になっていた。

 旧長浜駅の駅舎前には、「旧長浜港跡」の碑が立っている。長浜は、琵琶湖を航行する“太湖汽船”の連絡船で、東海道本線の大津に接続していた。かつての琵琶湖は、今の時代からは想像もできないほど、重要な交通路になっていた。

 琵琶湖の湖岸を歩き、竹生島めぐりなどの観光船の出る現在の長浜港や1983年に再建された長浜城を見てまわる。

 戦国時代、天下統一を目指す織田信長は、湖北の小谷城を拠城とする浅井氏や、越前・一乗谷を本拠地とする北陸の雄、朝倉氏の押さえとして、豊臣秀吉長浜城を築かせた。

 さて、長浜太閤温泉である。

 長浜太閤温泉というのは長浜城のすぐ近くにある国民宿舎「豊公荘」のことだが、一般の入浴客は11時から…。それまで待つことはできないので諦めた。残念無念‥。

 北陸本線の第1湯目に入りそこね、スゴスゴと長浜駅に戻る。駅前に建つ“秀吉と三成(石田三成の生まれた石田町長浜市内)の出会いの像”に別れを告げ、長浜発9時10分の芦原温泉行きの列車に乗った。

天国のあとの地獄

 芦原温泉行きの列車は3両編成。昔の寝台特急を改造した車両。湖北の木ノ本を過ぎると、山中に入っていく。車窓に余呉湖を見、湖西線に合流し、近江塩津駅を過ぎると、国境(近江・越前)の長いトンネルに入っていく。

 トンネルを抜け出ると、福井県新疋田駅。このあたりが、鈴鹿、不破と並ぶ“古代日本の三関”があった愛発(あらち)。そこは都から見ると、峠を越えた向こうの“越の国”。まさに異国の世界だった。

 敦賀、武生、鯖江と通り、11時16分、福井着。

 京福電鉄三国芦原線に乗換え、30分ほどで、福井県最大の温泉、芦原温泉のある芦原湯町駅に着く。

 芦原温泉には全部で70軒以上の温泉旅館・ホテルがある。京福電鉄の駅から歩いて5分ほどのところには、絶好の立ち寄り湯の「セントピアあわら」(入浴料500円)がある。

 近代美術館を思わせるような洒落た建物に入ると、展示コーナーになっている。温泉とは何かといったパネルや、日照りだった1883年(明治16年)、あちこちで井戸を掘ると湯が湧きだしたという芦原温泉の歴史を紹介するパネルなどが展示されている。

 ここの湯はいい。「天の湯」と「地の湯」があって、水曜日ごとに、男湯と女湯がいれ替わる。ぼくが行ったときは、「地の湯」が男湯。ふんだんに木を使った大浴場の湯船は高温の湯と低温の湯に仕切られ、打たせ湯や寝湯、蒸し風呂などもある。銭湯とユートピアをもじっての「セントピア」なのだろうが、温泉天国そのものなのである。

 天国のあと地獄に落ちるのは旅の鉄則。

 行きは京福電鉄だったので、帰りは北陸本線芦原温泉駅まで歩くことにしたが、いやー、その遠いことといったらない。名前と中身のまったく違う芦原温泉駅

 おまけに、気温39度という猛暑。炎天下をひたすら歩きつづけたが、1時間ほどかかって芦原温泉駅に着いたときは腰がぬけたかのようにグッタリだった。

歩いて、歩いて、最後は走った!

 芦原温泉14時26分発の金沢行きに乗る。

 牛ノ谷駅を過ぎると、ゆるやかな牛ノ谷峠を越え、石川県に入る。最初の駅が、加賀市の中心、大聖寺。次の14時34分着の加賀温泉駅で降りる。

 加賀温泉郷の温泉めぐりの開始。加賀温泉郷というのは山代温泉山中温泉片山津温泉粟津温泉の4湯だが、どこも大きな温泉地で、北陸を代表する温泉郷になっている。「さー、歩くぞ!」

 と、腹にぐっと力をこめて気合を入れる。というのは加賀温泉郷のうち、まず山代温泉に立ち寄り、今晩の宿となる山中温泉まで歩いていくのだが、かなりの距離があるからだ。片山津温泉粟津温泉は明日にする。

 山代温泉までは徒歩1時間。加賀温泉郷の中でも最大の温泉地で、50軒ほどの温泉旅館・ホテルがある。温泉街の中心にある共同浴場の「温泉浴殿・瑠璃光」(入浴料310円)の湯に入る。“浴殿”というのは初めて聞くような言葉だが、円形の湯船が2つある大浴場は立派なもので、

「ここは、ちょっとふつうの共同浴場とは違うゾ」

 と、いいたげな、まさに“浴殿”なのである。

 山中温泉までは、さらに1時間半、歩く。

 その途中では、別所温泉に立ち寄る。公衆温泉浴場(入浴料300円)が1軒。石膏泉の湯量豊富な温泉だ。

 山中温泉に着いたときには、すでに日が暮れかかっていた。温泉街の中心にある共同浴場の「菊の湯」(入浴料300円)に入ったが、ワッサワッサと入浴客で混み合い、壮観な光景。地元の人たちよりも、浴衣を着た泊まり客のほうが多かった。

 共同浴場の湯から上がると、加賀温泉駅の駅前案内所で紹介してもらった「こおろぎ楼」に行く。純日本調の趣のある宿。湯船から眺める夕暮れの渓谷美がよかった。

 なにしろ歩きに歩いたので、湯上がりに飲んだビールはうまかった。夕食の膳を部屋まで運んでくれた仲居さんは、

「まあー、駅から歩いてきただなんて‥‥、そんなお客さんは、初めてですよ」

 といいながら、何度もビールをコップについでくれた。

 翌朝は、4時に出発。一心不乱に歩き、6時過ぎに加賀温泉駅に着く。だが疲れきってしまい、ほんとうは今度は駅から北へ、片山津温泉へと歩いていくつもりにしていたが、その元気をなくしてパス……。

 6時24分発の一番列車、金沢行きに乗った。

 車中では、前の晩に宿でつくってもらったおにぎりを食べ、6時33分着の粟津で降り、粟津温泉へと歩く。

 前方に連なる山並みの一番奥に白山が見える。

 粟津温泉もけっこう遠い。駅から50分ほど歩いての到着。古い温泉街の中央にある共同浴場の「総湯」(入浴料260円)に入る。オープンして間もない時間帯で、入浴客は少なく、ガラーンとした「総湯」だ。帰り道は途中から走った。歩いて、歩いて、最後に走った加賀温泉郷だった。

黒部峡谷トロッコ列車

 粟津から小松、金沢と通り、森本で下車。徒歩30分の深谷温泉へ。「泉館」(入浴料550円)の湯に入る。ここの湯は強烈な色。重曹硫黄泉で、目の底に残るようなチョコレート色をしている。若干、塩味もする。この色つきの湯というのは、無色透明の湯よりも、はるかに温泉を感じさせてくれるものだ。

 森本の次の津幡で七尾線に乗換え、中津幡で下車。徒歩5分の津幡温泉へ。一軒宿「勝崎館」に行ったが、入浴は午後3時から……。ということで、入れなかった。

 津幡に戻り、ふたたび北陸本線に乗る。

 倶利伽羅峠を越えて富山県に入ると、北陸本線難解駅名ナンバーワンの石動(これで“いするぎ”と読む)駅。小矢部市の中心、石動からは高岡を通り、富山に着く。

 わずかな停車時間を利用し、すばやく駅弁の“ますのすし”を買いにいく。それを車内で食べる。ぼくはバイクで北陸路を旅するときも、わざわざ富山駅に立ち寄り、ますずし駅弁を買い、待合室で食べるほど。誰が何といおうとも、富山の“ますのすし”は日本一の駅弁なのである。押しずしの馴れたマスの味と富山米の味の組み合わせが絶妙なのだ。

 魚津で富山地方鉄道(通称地鉄)に乗り換え、終点の宇奈月温泉駅へ。駅周辺が宇奈月温泉の温泉街になっている。

 駅近くの共同浴場宇奈月温泉会館」(入浴料200円)の湯に入ったあと、ぼくのいつも泊まる温泉宿に比べるとレベル(宿泊費)の高い「ホテル桃源」に泊まった。ここの大浴場は、いかにも高級温泉ホテルを感じさせるものだった。

 

 翌朝、7時前にトロッコ列車で知られる黒部峡谷鉄道宇奈月駅に行く。すると、切符を買い求める人たちが長い列をつくっている。1時間以上も並んでやっと切符が買えた。だが、乗れたトロッコ列車は9時33分発。13両編成のトロッコ列車は満員だ。

 ほんとうは、黒薙駅で下車し黒薙温泉に、鐘釣駅で下車し鐘釣温泉に寄っていきたかったのだが、すべてパス。終点の欅平まで一気に行くことにした。黒部川の峡谷を右に、左に眺めながら走るトロッコ列車は、迫力満点だ。

 宇奈月から1時間半かかって欅平に到着。黒部峡谷の温泉めぐりの開始だ。

 第1湯目は駅前の欅平温泉。一軒宿「猿飛山荘」(入浴料500円)の男女別の露天風呂に入る。無色透明の湯。黒部峡谷の温泉はどこもそうだが湯温が高い。汗がタラタラ流れ出るような夏の盛りに、熱めの湯にさっと入るのはいいものだ。

 ここでは湯の中で一緒になった人にカメラのシャッターを押してもらったのだが、その人の奥さんが隣の女湯に入っている。

「オーイ、カアチャン、こっちに来いやー。この旅の人と一緒の写真に映るか」

 第2湯目は、名剣温泉。欅平から黒部川の支流、祖母谷に沿って、10分ほど歩いたところにある。一軒宿「名剣温泉」(入浴料600円)の峡谷を見下ろす露天風呂に入る。ここも男女別の湯で、家族連れと一緒になる。父親に連れられた小学生の子供たちは歓声を上げて、秘湯の露天風呂を楽しんでいる。父親は、男女別の湯の仕切り越しに、奥さんと話をしている。暖かな家族の雰囲気が伝わってくるような光景だ。

 そんな家族連れの姿を見ていると、ぼくの胸はチクリと痛む。夏休みが半分過ぎたというのに、我が子をどこにも連れていっていなかった。

「アナタ、帰ってきたら、海でも山でも、子供たちをどこかに連れていってあげて下さいね」

 という妻の声が、聞こえてくるかのようだった。

 第3湯目は、祖母谷温泉。名剣温泉から峡谷を見下ろしながら40分ほど歩く。ここまでくると、観光客の姿はぐっと少なくなる。一軒宿「祖母谷温泉」(入浴料500円)のコンクリートで囲った、ミニプールのような露天風呂に入る。湯量が豊富。混浴の湯なのだが、入っているのはぼく一人。

 第4湯目は、そこから上流に、わずかに歩いたところにある祖母谷地獄温泉。といっても温泉宿はない。河原に湯が湧き出ている。石で囲った手作りの露天風呂がいくつもある。

 そこでは、家族連れと中年のカップル、2人の若い女性と一緒になった。家族連れの奥さんは体にギュッとバスタオルを巻きつけ、不倫風カップルの女性はビキニの水着を着ていた。ところが若い女性の2人組は、タオルで胸を隠すだけなのだ。タオルからはみださんばかりの豊かな胸に、ついつい目がいってしまう。こうして男女が一緒になって、おおらかに青空のもとで湯に入れるというのも、黒部峡谷という大自然にいだかれた秘湯のなせる技なのである。

“駅前名水”の生地駅

 黒部峡谷の温泉群を十分に堪能したところで、欅平からトロッコ列車宇奈月へ、宇奈月からは地鉄富山地方鉄道)で魚津に戻った。

 魚津からまた、北陸本線の“鈍行乗り継ぎ”の旅になったが、2つ先の生地で降りる。今晩の宿、生地温泉の下車駅なのだ。

 生地の駅前には、すごい名水がある。北アルプスの雪どけ水が湧き水となって、コンコンと流れ出ている。ひと口飲んだときの、生き返るような水の冷たさ、水のうまさ!

 日本名水百選「清水の里」の水で、角のない、まろやかな味。舌に鮮やかな感触となって残。車で駅前にやってきて、容器に水を汲んでいく人たちがあとをたたない。ぼくの知っている範囲では、函館本線倶知安駅前の名水と並ぶ、“駅前名水”の双璧だ。

 戦国の武将、上杉謙信によって発見されたといい伝えられている生地温泉では、駅から歩いて30分ほどの温泉旅館「たなかや」に泊まった。黒部生まれの世界企業YKKの工場が目の前。純日本風の宿で、湯船から眺める庭園がきれいだ。さすがに富山湾に面しているだけあって、夕食のタイ、ヒラメ、アマエビ……の刺し身が新鮮。名物のバイガイも刺し身で出た。

 翌朝は5時前に宿を出発。すぐ近くの海岸に行く。そこは史跡公園。幕末につくられた台場の一部が残っている。1851年(嘉永4年)10月に着工し、翌11月には完成したという弧状の台場で、長さ63メートル、幅8メートル。その上に5基の大砲が据えつけられた。このような台場をわずか2ヵ月でつくりあげるほど、幕府は日本の海岸線の防備を急いでいた。鎖国日本の安眠を破る黒船来航の2年前のことだった。

CWニコルさんとの思い出の地

“鈍行乗り継ぎ”の毎日は、くりかえしいってるように、一番列車で出発するのを原則にしているが、その原則どおり、生地発6時10分の直江津行きに乗った。越中宮崎駅を過ぎると、新潟県に入る。列車は難所の親不知を走り抜け、糸魚川を通り、7時31分に終点の直江津に到着。米原から、ここまでが、北陸本線になる。

 直江津からは、長野経由の信越本線で高崎へ。

 第1湯目は、妙高山麓の妙高温泉。妙高高原駅から徒歩10分ほどの共同浴場に行くと午後から。そこで「福祉センター」(入浴料300円)の湯に入った。真夏の日差しがサンサンと差し込んでくる。ここでは、妙高山の登山から下りてきた人と一緒になったが、偶然にもぼくと同じ、神奈川県伊勢原市の人だった。

 湯から上がり、温泉街をプラプラ歩いていると、現在は作家として活躍しているCWニコルさんの顔が無性になつかしく思い出されてならなかった。

 何年か前に、バイクで国道18号を走ったとき、ふらりと黒姫山麓のニコルさんの家に寄った。イギリスからの客人や雑誌の編集者、テレビのプロデューサーらが来ていて、忙しかったのにもかかわらず、

「カソリさん、よく来たネー!」

 と、歓迎され、その夜は泊めてもらった。

 さんざんご馳走になり、飲んだあとで、

「カソリさんにうまいすしを食べさせてあげよう!」

 といって、車を呼び、この妙高温泉の温泉街にあるすし屋に、連れてきてくれたのだ。すしを肴にして、さらにさんざん飲み、店を出るころには2人とも泥酔状態。ぼくとニコルさんの関係は、いつも“泥酔状態”なのである。

 ぼくが初めてニコルさんに会ったのは、エチオピアの古都ゴンダール。今から20数年前の1968年のことになる。

 当時、ニコルさんは、シミアン山地に山岳国立公園をつくる仕事をしていた。ぼくはといえば、友人とバイクを走らせての、アフリカ大陸一周の最中だった。

 ゴンダールのニコルさんの家に何日か泊めてもらい、そのあとはシミアンに舞台を移し、約1ヵ月、ニコルさんの家で居候になった。夜になると暖炉の火を囲み、いろいろな酒をグテングテンになるまで飲むことが多かった。

 カソリ20歳、CWニコル27歳のときのことだった。

 日本には、ニコルさんの方が先に帰り、東京の桜上水に住んでいた。

 桜上水ではお宅や駅近くの赤提灯で何度となくご馳走になった。いつもぼくがご馳走になり、飲ませてもらうといったパターンだった。

 その後ニコルさんはカナダ中部のウィニペグに移り住み、ぼくはバイクでの世界一周の途中、またしても居候になったのだ。ニコルさんのお宅で開かれたホームパーティーの夜は忘れられない。ぼくと隣の家の若奥さんがいい仲になり(断っておきますが、ぼくがいい寄られたのです)、夜明け近くまで飲みつづけ、ニコルさんのえらいひんしゅくを買ってしまった。

 沖縄海洋博のときには、ニコルさんはカナダ館の副館長として来日した。沖縄北部の山原を旅していたぼくは、本部(もとぶ)にニコルさんを訪ね、ひと晩、宿舎で泊めてもらった。

 夜中まで飲みつづけ、泥酔状態になったところで、

「カソリさん、走るよ!」

 というニコルさんの一声で、大声を張り上げながら、ま夜中の本部の町並みをふらつく足で駆けめぐった。

 妙高温泉を歩きながら、そんなニコルさんとの思い出が、走馬灯のように脳裏をかすめていく。旅はまさに人との出会いの連続のようなものだが、ぼくにとってニコルさんとの出会いほどドラマチックなものはない。

 ニコルさん、またいつの日か、飲ませてもらいに押しかけていきますよ!

千曲川は信州のシンボル

 妙高山(2446m)を間近に眺める妙高高原駅から、11時11分発の急行「赤倉」に乗る。といっても、この新潟発小諸行きの急行「赤倉」は、妙高高原駅から先は普通列車になる。6両編成の電車で、ほぼ、満員の乗客だ。

 新潟県から長野県に入る。

 妙高山は後ろに去り、右手の車窓には黒姫山(2053m)が大きく見えてくる。

 黒姫駅を過ぎると、黒姫山も後ろに去り、飯縄山(1917m)がそれに代わって大きく見えてくる。

 これら妙高、黒姫、飯縄の三山はみわめて目立つ独立峰なので、信越本線の車窓の風景にアクセントをつけている。

 長野を通り、12時23分、戸倉着。

戸倉上山田温泉・開湯100年”の横断幕が張られた戸倉駅で降り、戸倉上山田温泉と新戸倉温泉の2湯をまわる。

“駅前食堂”でいつものラーメンライスの昼食。食べながら店のオバチャンと話し、共同浴場の情報を仕入れる。オバチャンは親切にも、その場所の地図を書いてくれた。

 炎天下を歩きはじめる。

 国道18号を横断し、大正橋で千曲川を渡る。橋の欄干にもたれかかりながら、しばらくは千曲川の流れを眺めた。

 新潟県に入ると信濃川と名前を変え、日本海に流れ出る日本最長のその流れは、まさに信州のシンボル。ぼくは千曲川の流れを見ると、

「あー、信州にやってきたんだなあー」

 という実感を感じるほどだ。

 その千曲川の流れの向こうに、戸倉上山田温泉の温泉ホテルや旅館が建ち並んでいる。 千曲川を渡る。戸倉上山田温泉の温泉街に入ってすぐのところに、共同浴場の「八王子大湯」(入浴料180円)がある。建物の見かけはあまりよくないが、湯はなかなかのもの。ほかに入浴客もいないので、我が物顔で湯船につかる。湯量は豊富。無色透明の湯が、惜しげもなく湯船からあふれ出ていた。

 さっぱりした気分で、戸倉上山田温泉の温泉街を歩き、今度は万葉橋で千曲川を渡る。その対岸(信越本線と同じ側の千曲川右岸)が、新戸倉温泉。ここでも共同浴場の「観世温泉」(入浴料260円)の湯に入る。設備の整ったきれいな共同浴場。けっこうな入浴客で、混み合っていた。

 ところで戸倉上山田温泉は温泉宿が5、60軒もある信州でも有数の大温泉地だが、新戸倉温泉は温泉宿が20軒ほどでこぢんまりとしている。千曲川をはさんだ2つの温泉は、それぞれに違った趣を持っている。

 戸倉発14時14分の列車に乗る。

 上田を通り、右手遠くに蓼科山を見、左手に浅間山を見ながら、14時35分、小諸に到着。駅裏の小諸城跡の「懐古園」を見学し、駅から徒歩10分の中棚温泉に行く。

 一軒宿の「中棚荘」(入浴料1000円)は、建て替えられて新しくなっていた。大浴場の木の湯船には、気分よく、ゆったりとつかることができた。それに隣りあって、露天風呂も出来ている。大浴場の湯では京都から来たという常連サンと一緒になったが、中棚温泉がすっかり気にいり、年に4、5回は来るという。

 温泉好きの人というのは、浮気もせずに好きな温泉地に足繁く通うタイプの人と、次から次へと新しい温泉地に足を延ばすタイプの人の、2つのパターンに分けられるようだ。

 小諸発16時33分の高崎行きに乗る。

 軽井沢を通り、碓氷峠を越えて群馬県に入り、17時40分着の磯部で下車。いよいよ、最後の磯部温泉だ。第1湯目の芦原温泉から数えて第16湯目の温泉になる。ここでは、駅から徒歩2、3分の温泉旅館「昭里」(入浴料700円)の湯に入った。時間がたっぷりあるので、長湯させてもらった。感無量の湯だ。

 19時02分の列車で磯部を出発。山地から平地へ。列車はすっかり日の暮れた関東平野を走る。高崎到着は19時21分。高崎駅では「関東・中部一周」というひとつの旅を終えた安堵感と、「終わってしまったな‥」という寂しさの入り交じった気分を味わうのだった。

 第1本目の米原発の列車から数えて23本目の列車、高崎発19時33分の高崎線・上野行きにカンビールを1本持って乗り込む。10両編成の通勤快速の電車が動きだしたところで、カンビールをプシューッとあける。通勤時間帯には超満員になる高崎線も、ガラガラに近いような状態で、21時07分に上野駅5番ホームに到着した。