賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

東アジア走破行(2):サハリン縦断(2000年)

コルサコフ港に到着!

 2000年8月9日、「サハリン軍団」の総勢19名のメンバーとバイクをのせた東日本海フェリーの「アインス宗谷」(2628トン)は午前10時、稚内港を出港した。甲板に全員が集まり、100円の缶ビール稚内港を離れると自販機の缶ビールは100円になる)で乾杯!

 缶ビールを飲みながら、離れていく北海道を眺めた。天気は快晴。稚内港からノシャップ岬、日本海へと続く海岸線がよく見える。礼文島利尻島もよく見える。目の向きを変えると、今度は日本本土最北端の宗谷岬からオホーツク海へと続く海岸線を一望だ。

「サハリン軍団」というのは、東京の旅行会社(株)「道祖神」のバイクツアー、「カソリと走ろう!」シリーズの「サハリン縦断ツーリング」に参加した19人のメンバーのことで、日本各地から稚内にやってきた。「カソリと走ろう!」シリーズというのは1993年の「エアーズロック(オーストラリア)」が最初で、「タクラマカン砂漠」、「モンゴル」、「チベット」と続き、「サハリン」が第5弾目ということになる。「サハリン縦断」には「道祖神」の菊地優さんが同行した。

「アインス宗谷」は宗谷海峡北へ。やがて前方にはサハリン最南端のクリリオン岬が見えてくる。次第にはっきりと見えるようになる。「アインス宗谷」はアニワ湾に入り、サハリンの島影を左手に見ながら北上する。そして17時30分、サハリン南部のコルサコフ港に到着した。日本とは2時間の時差があるので、日本時間でいえば15時30分。稚内港から5時間30分の船旅だった。

 コルサコフは旧大泊(おおどまり)。日本時代には稚内から大泊へ、稚泊航路の連絡船が出ていた。まさに日本の北への動脈であり、大泊は樺太の玄関口だった。コルサコフ港の重要性は今でも変わらない。

 コルサコフでの入国手続きは現地の旅行会社「ユーラシアインタートランス社」が事前に手配してくれていたので、すごく簡単にすんだ。バイクの持ち込みはうまくいくだろうか…と心配していたが、それは杞憂でしかなかった。

 1999年に全行程4万キロの「日本一周」を走った愛車のスズキ・ジェベル250GPSバージョンともどもコルサコフ港に上陸。このバイクにはGPSがついている。しかしスクランブルがかかっているのだろうか、サハリンではGPSが使えなかった。

 コルサコフ港に上陸して驚いたのはサハリン警察のパトカーが我々を待ってけれていたこと。ユジノサハリンスクまでの40キロは赤青灯を点滅させたパトカーの先導つき。前に2台、後ろに1台とまるでVIP待遇でユジノサハリンスクに向かった。この道はサハリンでは一番の幹線になっている。それだけに交通量もけっこうあるが、パトカーはそれらの車をすべて止めて我々のバイクを走らせた。ユジノサハリンスクの町に入ると、赤信号でも交差する道の車を止めて「サハリン軍団」のバイクを走らせた。ほんとうにVIP待遇だった。

ユジノサハリンスクを歩く

 サハリンの州都、ユジノサハリンスクでは駅前の「ユーラシアホテル」に泊まり、「レストランユーラシア」で夕食を食べた。コケモモのジュースやロシア製ビールの「バルチカ」を飲んだ。ツブ貝などの前菜のあとのメインディッシュは豚肉料理。サハリンでの肉の重要度は豚が一番で、そのあと鶏、牛の順だという。

 夕食後は夜のユジノサハリンスクの町を歩いた。ここは旧豊原(とよはら)。日本時代には樺太庁が置かれた。ユジノサハリンスクは街路樹の涼しげな町で、札幌や旭川…の北海道の町と同じように、碁盤の目状に道路が交差している。湿気の多い、むせかえるような暑さの東京とは違い、空気がさらっとしていてべとつきがない。

「なつかしい!」

 サハリンには1991年に初めてやって来た。稚内港からバイクともどもロシア船に乗ってホルムスク港に渡り、そこからホルムスク峠(旧熊笹峠)を越えてユジノサハリンスクまでやってきた。そしてここを拠点にしてサハリンの南部をまわったのだ。

 そのときはまずユジノサハリンスクを一望するボルシビック山の展望台に登り、町を見下ろした。すぐ後ろには70メートル級、90メートル級のジャンプ台。真下に見える幅広い通りはプロスペクト・ポベーダ。プロスペクトはアベニューで、ポベーダはビクトリー。ボルシビック山を下ると、プロスペクト・ポベーダの起点になるポベーダ広場に行った。そこには戦勝記念碑。実物のT34型戦車をのせたモニュメントが建っていた。

 そんな10年前のユジノサハリンスクの姿が鮮やかに蘇ってくるのだった。

ユジノサハリンスクから北へ

 8月10日午前9時、ユジノサハリンスクを出発。ここから先もパトカーの先導。郡単位で警察の管轄が変わるので、郡境で次の警察のパトカーが待っているというリレー方式だ。ユジノサハリンスクの交通警察の警官、ジマさんと運転手のボローニャさん、ガイドのワリリさんが全行程を同行してくれることになった。

 ユジノサハリンスクの市街地を抜け出ると、広々とした平原。その中にジャガイモ畑、ビート畑、牧場…を見る。北海道に似た風景。ぼくが先頭を走り、そのあとを「サハリン軍団」の18台のバイクが続く。バックミラーをのぞき込むと、1列になったバイクが長い線を描いている。

 オホーツク海に出た。海岸近くは広々とした湿原。釧路湿原に似ている。その中を流れる幅100メートルほどの川を渡ったが、残念ながら橋の上からは何も見えなかった。前回、来たときは今回と同じ季節だったが、その橋の上からの眺めはすごいものだった。オホーツク海から登ってくるカラフトマスが群れをなし、川面が盛り上がり、あちこちで飛び跳ねていた。もう「すごい!」の一言で、サハリンの自然の豊かさを見せつけられたような思いがした。カラフトマスのすぐあとにはサケが登ってくるという。だが、残念ながら今回はこのような光景は見られなかった。カラフトマスが来なくなってしまったのか、それとも時期がずれたのか…。

 オホーツク海の砂浜で昼食。若干、酸味のある黒パンにチーズ、ハム、チキン。北海道へと続くオホーツクの海を見ながらの食事なので、よけいにおいしく感じられた。

 ユジノサハリンスクから100キロほど北に行くと、舗装は途切れ、ダートに入っていく。先導のパトカーの巻き上げる土けむりがものすごい。あっというまにぼくもバイクも埃まみれになった。

 途中で給油。街道沿いにはガソリンスタンドがあり、オクタン価93のガソリンを問題なく入れられた。というのは1991年に来たときは、極端なモノ不足で、ガソリンを手に入れるのは大変なことだった。ガソリンスタンドにもガソリンはなく、高額な闇ガソリンを買ったこともあった。それだけに10年間のサハリンの変化を見る思いがした。

 ユジノサハリンスクから300キロ北に行ったポロナイスク川の河口の町、ポロナイスクに到着。ここは旧敷香(シスカ)。日本時代の王子製紙の工場が今でもそのままの姿で残っていた。敷香は王子製紙とともに大きくなった町だが、そのほか旧真岡(ホルムスク)や旧泊居(トマリ)、旧恵須取(ウグレゴルスク)にも王子製紙の工場はあった。日本語に堪能なワリリさんの話によると、ポロナイスクもそうだが、それら旧王子製紙の工場は今でもそのまま使われているとのことだ。

 ポロナイスクにはひと晩泊まった。泊まったところは学生の寄宿舎で、外観は普通のアパートと同じ。まずはバーニャ(浴場)に行く。湯を浴びたあとサウナで汗を流し、葉のついたシラカバの小枝を束ねたものでビシバシと体をたたくのだ。これがロシア流。体が赤くなるほどたたくと、温泉につかったのと同じように血行がよくなるという。そのあとで夕食。前菜にもサラダにも豚肉料理のメインディッシュにも、オクロップという青菜の香辛料が添えられていた。これは日本でも最近使われているペンネルで、ウイキョウの仲間になる。サハリンの食文化というのはロシアと同じで、香辛料をよく使う食文化圏に含まれる。

北緯50度線を突破!

 翌朝、ポロナイスクを出発。道幅は広いが、前夜に降った雨でところどころに大きな水溜まりができていた。交通量がガクッと減った。北に100キロほど走ったところで北緯50度線に到達。

「やったー!」。

「サハリン縦断」での、ぼくの一番の憧れは北緯50度線を越えることだった。それだけに喜びは大きかった。

 道のわきには「北緯50度線」の碑。その碑には南に向かって大きく目を見開いた旧ソ連兵の姿が刻み込まれ、その下には「ソ連軍は南サハリンとの間にあった国境線を開放し、古来のロシア領土を奪回した。1945年8月11日」とロシア語で書かれている。

 北緯50度線以南のサハリンが日本領「樺太」になったのは、日本の勝利で終わった日露戦争後のポーツマス条約(1905年)によってのことである。「北緯50度線」の碑文は50年後にまた領土を奪回したというロシアの気分が伝わってくる。

 サハリン最南端のクリリオン岬は北緯45度54分。最北端のエリザベート岬は北緯54度20分なので、この北緯50度線というのはサハリンのほぼ中央。今でもサハリンを南北に分ける大きな境目。近くの樹林の中には戦没者の慰霊碑がひっそりと建っている。このあたりは第2次大戦末期の激戦地だった。

 北緯50度線を越え、北サハリンに入ると、バイクで切る風は冷たさを増す。そこはツンドラ(永久凍土)の世界。夏のツンドラはただの草原にしか見えないが、バイクを止めて一歩その中に入ってみると、なんとも奇妙な感触を足の裏に感じる。まるで水を吸ったスポンジの上を歩いているようだ。ツンドラには花が咲き、マローシカというちょっと甘酸っぱい味の赤い草の実が成っていた。

 その夜はティモフスクで泊まった。ホテル内のレストランでサラダとマッシュポテトつきのハンバーグの夕食のあと、ロシア人スタッフたちとウオッカを飲んだ。息を止めて一気に飲み干し、飲みおわったあとフーッと大きく息をはく。それが正統なロシア式の飲み方だとのことで、我々も真似して飲んだが、あっというまに酔いつぶれたメンバーも出た。それにしてもロシア人たちは強い!

ノグリキの北方少数民族

 ティモフスクからノグリキへ。その間は140キロほどでしかないので、「サハリン軍団」は渓流でたっぷりと時間を使ってサハリンの自然を楽しんだ。釣りの好きな人たちは渓流釣りをはじめる。イワナやマスが釣れた。ぼくを含めた何人かは「渓流浴」を楽しんだ。裸になって渓流に身をひたすのだが、キリッとした水の冷たさが肌に残った。

 ノグリキにはまだ日の高いうちに到着し、「ノグリキホテル」に泊まった。ユジノサハリンスクを出発して以来、初めて泊まる快適なホテル。シャワーを浴びてさっぱりしたところで町に出る。ホテル近くのパブに入り、大ジョッキーでビールを飲んだ。1杯8ルーブル。日本円にすれば約35円でしかない。この時点での1ルーブルは4円20銭。ぼくが初めてロシアに行ったのは1977年のことで、そのときは1ルーブルは420円だった。23年でルーブルは円に対してレートを下げつづけ、なんと100分の1になってしまった…。それはさておき、さっぱりした味わいのうまいビールだった。

 町をぷらぷら歩くと、ニブヒ族(ギリヤーク族)などの少数民族をみかけた。ここには「北方民族博物館」があり、ニブヒ族などの北方少数民族の生活用具などを展示している。サハリンには全部で24の北方少数民族がいるということだ。

 ホテルに戻ると、レストランで夕食。ロシアのスープ、ボルシチがうまかった。メインディッシュはロールキャベツなどの添えられたライス。夕食後は再度、町を歩き、ノグリキ駅まで行った。ノグリキはサハリン縦断の鉄道の終着駅なのだ。

サハリン最北の地へ

 ノグリキから北に250キロ、サハリン最北の町、オハへ。その途中では1995年5月28日の大地震に直撃され、2000人以上もの死者を出したニェフチェゴルスクを通った。町は復興することもなく、北の大地にうち捨てられ、今は住む人もいなかった。町は消滅し、荒野のまっただなかにポツンと慰霊塔だけが建っていた。そのあたりが、かつてのニェフチェゴルスクの町の中心だったという。

 コルサコフ港から936キロ走ってサハリン最北の町、オハに到着。オハはサハリン沖の海底油田開発の拠点になっている。石油関連の工場や施設、炎を噴き上げる精油所などが見えた。

 サハリンの道はオハからさらに北へと続く。シュミット半島に入り、コリンドという小さな町を通り、オハから80キロ行ったところで尽きた。コルサコフ港から1007キロの地点だ。小高い丘に登ると、夕日を浴びた丘陵地帯のその向こうには、オホーツク海に突き出たサハリン最北端のエリザベート岬が見えた。我ら「サハリン軍団」はエリザベート岬に向かって全員で万歳し、

「ハラショー(すばらしい)!」

 と、大声で叫んでやった。

 夕日に染まったサハリン最北の地を眺めていると、「もっと北へ! もっと北へ!」という衝動にかられ、無性にさらに北の世界を旅したくなった。

 その夜はオハで泊まったが、「サハリン最北の地」到達を祝ってビールで乾杯し、そのあとは夜中までウオッカパーティーで盛り上がった。

タタール海峡で「海峡浴」!

 8月14日午前9時、オハを出発。「サハリン縦断」復路の開始だ。まずはオホーツク海側のオハからタタール海峡側のモスカリボへとサハリンを横断する。といっても南北に細長いサハリンの中でも、とくにこのあたりはくびれて狭くなっているので、オホーツク海の海岸からタタール海峡の海岸まではバイクのメーターで38キロでしかなかった。

 モスカリボの町中から海岸への道はフカフカの砂道。砂の車輪をとられ、転倒する人が続出した。そんな砂道を走り抜けてタタール海峡の砂浜に出たときは大感動! 裸になって海峡に飛び込み、「海峡浴」をし、全身でタタール海峡を味わった。

 北海道とサハリンを分ける宗谷海峡を越えたときもそうだが、海峡というのはじつに心に残るもの。タタール海峡を見ていると、「アフリカ一周」で渡ったアフリカとヨーロッパを分けるジブラルタル海峡や「南米一周」で渡った南米大陸とフェゴ島の間のマゼラン海峡、「ユーラシア横断」で渡ったヨーロッパとアジアを分けるボスポラス海峡…など、今までに見た世界の海峡のシーンが思い出されてくるのだった。

 タタール海峡は1808年に間宮林蔵が発見し、シーボルトがヨーロッパに伝えたことによって間宮海峡ともいわれる。海峡の一番狭い部分はわずか7・4キロ。そこからだと対岸の大陸がはっきりと見えるという。海峡出口のモスカリボあたりだと幅が広いので、いくら目をこらしても対岸の大陸はまったく見えなかったが、「今度はロシア本土を走ろう!」と、この時、「シベリア横断」を強く意識した。

「ノグリキホテル」のロシア料理

 オハからノグリキへ。ノグリキでは往路のときと同じ「ノグリキホテル」に泊まり、同じパブでビールを飲み、ノグリキの町を歩いた。

 ホテルのレストランでの夕食にはボルシチとサラダ、チキンをのせたライスが出た。サハリンではライスがけっこう食べられているが、皿に盛られたライスをナイフとフォークで食べる。ここでは行きも帰りも大好きなボルシチが出た。ぼくにとってはボルシチが一番、ロシアを感じさせる食べ物。ボルシチはビート(砂糖大根)の入った赤味を帯びたスープだが、地域ごとに様々なバリエーションがあるので見た目も味もずいぶんと異なる。各地で様々なボルシチを味わうのはロシア圏での旅の大きな楽しみといえる。

 翌朝の朝食はパン、クレープ、サラダ、それとライス。飲み物は紅茶。そのライスというのはミルクをかけ、砂糖を入れて甘くし、クリームをたっぷりとのせたもの。ヨーロッパ人の好きなものだが、甘くしたライスというのはどうにもこうにも食べにくい。「ご飯はこうして食べるもの」という日本風の食べ方が身にしみついているからなのだろう。

 ノグリキからユジノイサハリンスクまでは列車の旅になる。出発は夕方なので、午前中はノグリキの町を歩き、ホテルのレストランで昼食。その昼食にはホットケーキ風薄焼きパンのプリヌイとニシンのオイル漬け、それとロシア風水餃子のペリメニが出た。ニシンのオイル漬けは油ぎったものではなく、さっぱりとした味わい。それをプリヌイにのせて食べる。ペリメニは皮と肉の取り合わせが絶妙で我々、日本人の口に合う。これらすべての料理にはいつものことだが、香辛料のオクロップが添えられている。「ノグリキホテル」のレストランでは往路、復路ともにふんだんにロシア料理を食べることができた。

冒険家「河野兵市」との出会い

「ノグリキホテル」で昼食を食べおえると、「サハリン軍団」はバイクに乗って町外れにあるノグリキ駅へ。列車の発車時刻まではまだかなりあったが、それまでに自分たちでバイクを貨車に乗せなくてはならなかった。ぼくたちは全員で力を合わせて19台のバイクを貨車に積み込んだ。そのあとは駅近くの湖に行き、今度は「湖水浴」を楽しんだ。

 ノグリキ駅に戻ると、なんとも驚いたことに、「カソリさ~ん!」と声を掛けられた。その人は冒険家の河野兵市さんだった。河野さんは北極点から故郷の四国・愛媛県の瀬戸町(現伊方町)まで、6年間かけて人力で踏破するという。その最後がサハリンになるとのことで、北極圏からサハリンまで下見をしていた。河野さんは下見をほぼ終え、我々の乗る列車でユジノサハリンスクまで行くところだった。

「河野兵市」といえば日本を代表する冒険家。21歳のときに自転車で「日本一周」をしたあと世界に飛び出し、7年あまりをかけて世界を駆けめぐった。その間では「ロサンゼルス→ニューヨーク」間の徒歩での「北米大陸横断」をしたり、自転車での「南米大陸縦断」を成しとげた。さらに驚かされたのはその後のリヤカーを引いての「サハラ砂漠縦断」だ。そして徒歩での北極点踏破。

 そんな河野さんはさらなる大冒険として、今度は北極点から自分の故郷までを完全踏破しようというのだ。「来年には必ず実行しますよ!」という河野さんは、迫力満点の顔をしていた。ノグリキ駅でしばし語らったあと、お互いのこれからの旅の健闘を祈ってガッチリ握手をかわし、ユジノサハリンスク行きの列車に乗り込んだ(河野兵市さんはその翌年の2001年に北極圏で遭難し、亡くなった)。

サハリン、列車旅

 17時05分、ユジノサハリンスク行きの列車はノグリキ駅を出発した。緑色の2連のジーゼルカーに引っ張られた14両の客車。我々の乗ったのは寝台車で4人用のコンパートメント。通路の窓は上部だけが開くようになっている。そこから流れゆく風景を眺めた。ところどころでは道路も見られた。「あの道をバイクで走ったのだ」と思うと、感無量。

 夕暮れが迫ると、我ら「サハリン軍団」の宴会がはじまった。連結器のあたりにメンバーが集まり、ビールやワインを飲んだ。そのあと食堂車での夕食。サラダと貝料理、豚肉料理が出た。食堂車は我々「サハリン軍団」の専用車同然だったので、食事のあとはまたしてもビール、ワインでの宴会になり、警官のジマさん、運転手のボロージャさん、ガイドのワリリさんをまじえて夜中まで飲み続けた。ワリリさんは盛んにロシア・カムチャッカ半島のすばらしさを語り、「次はカムチャッカ半島に行こう!」といった話で盛り上がった。

 こうしてバイクでの「サハリン縦断」を成しとげると、今度は無性にロシア本土を走りたくなる。カムチャッカ半島も、シベリアの道の尽きるマガダン港までもバイクで走ってみたくなる。

 翌朝、9時30分、ユジノサハリンスク駅に到着。16時間25分の列車の旅だった。

「ドスビダニア、サハリン!」

 列車からバイクを下ろし、ユジノサハリンスク駅前の「ユーラシアホテル」に泊まる。シャワーを浴びてさっぱりしたところで、日本料理の「飛鳥」で昼食。カラフトマスの焼き魚、イクラカニの入った酢の物と北海の海の幸を存分に味わった。我ら「サハリン軍団」はサハリン縦断の成功を祝して「乾杯!」を繰り返した。

 夜は「レストランユーラシア」でのパーティー。それにはガイドのワリリさんと運転手のボローニャさん、それと警官のジマさんが奥さんと15歳の娘リカさんを連れて参加してくれた。ジマさんの奥さんとリカさんはともに美人。とくに透き通るような色の白さのリカさんは男どもの注目の的で、何かとカタコトのロシア語で話しかけるのだった。

 食事が終わると、今度はウオッカパーティー。ワリイさんやボローニャさんとトコトン勝負したので、ぼくを含めて何人かが足腰が立たないくらいに酔ってしまった。

 8月17日8時、ユジノサハリンスクを出発。パトカーの先導で40キロ走り、コルサコフへ。10時出港の「アインス宗谷」に乗り込んだ。全行程1463キロの「サハリン縦断」だった。

 我ら「サハリン軍団」は離れていくコルサコフに向かって、「ドスビダニア(さよなら)、サハリン」と何度も大声で叫んだ。