賀曽利隆 STILL ON THE ROAD !

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。

『アフリカよ』(1973年7月31日・浪漫)第一章(その5)

ルイス号の人びと

還らぬ旅

 船は日本の南岸ぞいに西行している。乗客は約一〇〇人のブラジルヘ移民する台湾の人たち。日本で一年間の農業実習を受けた四人の日系ブラジル人、南米を旅しようとしている五人の日本人学生、それに、モザンビークで下船するぼくたち二人だ。

 船の食事には、洋食と中国食、日本食があり、ぼくたちは日本食をとった。ところが、ごはんはいやな味がするぽろぽろの外米で、おかずも中国食のような油っぽいものばかり。お茶を飲めば、これまた日本のお茶とは大違いのへんな飲みもの。覚悟はしてきたつもりだが、どうにも喉を通らない。すごくおなかがすいているのに手が出ない。「チリーン、チリーン……」と食事を知らせる鐘の音がきこえてくるとガックリ。考えてみると、ぼくはパンもきらいで、ごはんと味噌汁がないと食べた気がしないという、わがままな食生活をしてきた。寿司の食べくらべなんかしてきたバチが当たったのだ。これからの長い道中のことを考えると気が狂いそうになるが、もう船に乗ってしまったのだし、海へ飛び込むわけにもいかない。

 しかし、人間ほど不思議なものはない。やがて――まもなく、泥水をすすり、ひとにぎりのカッサバで空腹をいやし、野生の草や木の実をつまんで食べる、といった食事が、おいしくてしかたがない、ということになってしまったのだから、まったくおかしなものだ。台湾の人たちは、みんな感じがよかった。年配の人は、かなり日本語を話し、若い人の中にも日本語を上手に話す人がいた。しかし、内乱後、大陸から台湾に移った人たちは、ぜんぜん日本語を話せなかった。夜になると、台湾の少女素琴(スーチン)や海※(※=雨の下に文:ハイウン)が中心となって、子供たちは歌を歌ってくれた。抑揚の激しいリズムがもの悲しい。海※(ハイウン)の姉さんの海蕊(ハイリーン)が子供たちに、お話ししてあげるからきなさーい、というと、子供たちは「ワーイ」と大喚声をあげ、海蕊のところへ飛んでいく。彼女の話しかたはじつにうまく、子供たちは熱心に耳をすまして聞いていた。中国に古くから伝わる妖怪の話だそうで、こわい場面になると、子供たちはおびえてしまった。(日本の子供たちと違うなあ)、彼らを見てそう思った。テレビがあまりにも普及してしまった日本、目を輝かせてこのような話を聞く子供たちが、はたして何人いるだろうか。台湾の子供たちが、なんともいえず子供らしく見えた。

 神戸から五人の日系ブラジル人と三〇人ほどのボリビアに移民する沖縄の人たちが乗った。

 四月十七日、ルイス号はまだ暗い神戸を離れ、一路釜山にむかう。次の朝、ルイスは朝鮮海峡を進んでいた。前の日の天気が信じられないほど寒く、おまけに雨がしとしと降っていた。

 釜山、荒涼とした赤茶けた山々、山肌を這うようにして立ち並ぶ家々、うすら寒い感じのする町なみ、そこはもう異国だった。初めて目にする外国、それは、一生忘れることのできないほど強い印象を、その人に与えるという。ぼくもそう思う。目を閉じると、うすよごれた町なみや、険しい表情をした人々の顔が今でも、鮮やかによみがえってくるのだ。

 釜山では、パラグアイやブラジルに移民する韓国人、約八〇人が乗船した。汽笛を鳴らし、船が静かに岸壁を離れると、見送る人々も見送られる人々も、声をあげて泣いていた。

「私は、これで二度と祖国を見ることも、祖国の地を踏むこともないでしょう」と、年老いた男の人が、肌を刺すような冷たい風にかき消されてしまいそうな低い声で、そう言った。国を離れていくつらさに耐えきれないかのように、気が狂ったように泣きわめく若い奥さんの姿も見られた。たまらなく胸が締めつけられるような思いだった。いたたまれない気持になる。急いで自分のベッドに戻り、横浜でNが船の中で飲めといって置いていった一升びんをかかえ、再び甲板に戻った。雲の切れまから見える夕日、朝鮮の海に沈む夕日を見ながら、酒をラッパ飲みした。祖国に別れを告げた移民の悲しみが、二度と戻るまいと誓った彼らの悲しみが、痛いほどによくわかった。悲しみに沈む彼らを見ていると、ぼくはふと日本を思った。いつの日か、自分の国に帰る日がやってくるのだろうか――。

 韓国の人たちが加わったことによって、言葉はいよいよややっこしくなる、日本語、中国語、朝鮮語ポルトガル語スペイン語、それに英語。「おはよう」と言えば「早安(ゾウアン)」、「アニョンハシムニカー」、「ボンディア」の声が返ってくる。中国語、朝鮮語は非常に発音の難しい言葉だと思う。懸命になって彼らのまねをしようと思っても、どうしても舌がまわらない。のちに、東アフリカのウガンダで会った韓国人医師の奥さんは、「世界でいちばん難しい言葉は朝鮮語です。ですから私たちが発音できない言葉はどこにもありません」と得意だった。言葉といえば、アフリカの言葉、特にバンツー系の言葉はかなりおぼえやすいと思う。母音が日本語とほとんど同じで、おまけに語彙が少ない。スペイン語ポルトガル語、イタリア語も、母音が日本語とそっくりなので、めんどくさい動詞の活用などがなければ、日本人にとって、おぼえやすい言葉だと思う。

 船は東シナ海から台湾海峡にさしかかる。日は暮れて、すでに海は暗かった。甲板で素琴(スーチン)が一人海を見ている。

「台湾とも、もうお別れだね」

「悲傷(ペイサン)」、彼女はただひとこと、そう言うとだまってしまった。中国大陸の青島(チンタオ)で生まれ、激しかった動乱の荒波にもまれながら台湾に移り住み、台北(タイペイ)で育った十九歳の少女。いつも陽気で明るい笑いをふりまいていた素琴、国を離れていく悲しみに襲われたのか、涙ぐんだ視線を、暗い波間にむけていた。